今回出土したほとんどの形象埴輪は、前方後円墳のくびれの部分にあった「造り出し
(※6)」に並んでいたとみられています。そこは墳丘の海側に位置する、海からよく見える場所。さまざまな形象埴輪は、その古墳に眠る人物の権威を、瀬戸内海を往来する人々に誇示していたと考えられます。
天王森古墳の特徴として、武器・武具を模した形象埴輪が多いことがあります
(※7)。中でも大刀形(たちがた)埴輪1体は、復元した全長が約120センチメートルにもなる大型品。しかも、細部から全体まで、継体(けいたい)大王(天皇)
(※8)の陵墓と推定されている「今城塚古墳(大阪府高槻市)」の大刀形埴輪とよく似ていることが分かりました。そのことから天王森古墳に眠る人物は「当時の王権に埴輪づくりの工人を派遣してもらえるほどの実力をもった有力人物
(※9)」だった可能性が浮かび上ってきたのです。同時に、武器・武具の埴輪が多いことは「被葬者の生前の軍功」を反映した可能性もある
(※10)とも示されました。
天王森古墳が築かれる前から、海のかなたの朝鮮半島では国々
(※11)が対立していました。『日本書紀』には、5世紀後半、雄略(ゆうりゃく)天皇が朝鮮半島へ将軍らを派遣し、その一人、小鹿火宿祢(おかひのすくね)
(※12)は帰路、角国(つののくに)に留まったことから角臣(つののおみ)と名付けられた…とあります。それは、角国に、ヤマト王権にとって重要な港があったことを物語るもの。“つの”は都怒・都濃などとも表記され、後の都濃郡は現在の下松市・周南市に当たります。天王森古墳に眠る人物は、そのとき角国に留まった小鹿火宿祢かその後継者?…という説
(※13)も今回新たに示されました。
天然の良港を擁する下松は「三角縁盤龍鏡(ばんりゅうきょう)」など中国・日本製の青銅鏡4面が発見された「宮ノ洲古墳
(※14)」などの古墳がある地。また、下松の地名は「百済津(くだらつ)」に由来するのではという説を唱えた歴史研究者
(※15)もいます。さらに、下松には百済の王の第三王子がやってくることが予言されたという伝承
(※16)もあります。6世紀前半に古墳を築き、埴輪に護られながら長い眠りについたのは、どんな人物だったのか。その確かな答えは謎ですが、埴輪群の発見は古くから重要な港があった下松のさまざまな歴史・伝承も想起させ、ヤマト王権や朝鮮半島とのつながりまで一層身近に感じさせてくれます。