専平は陸軍大尉で、退役後、下松銀行の役員に。そうした中で大正6(1917)年春、専平をはじめ下松町などの有力者らに壮大な話が舞い込みます。萩出身で国内屈指の実業家だった久原房之助(くはら ふさのすけ)
(※4)が、宮ノ洲がある下松町などに世界有数の工業都市をつくりたいと相談してきたのです。それは下松町から太華村(現在の周南市)までの約90万坪に造船・製鉄などの工場を建設するとともに、1町3村にわたる新市街に上下水道・電車・劇場なども整備するという「下松大工業都市建設計画」。下松に着目したのは、下松が房之助の叔父で大実業家の藤田伝三郎(ふじた でんざぶろう)
(※5)の父祖の地だったことや、良港を擁していること、塩田一帯が工場用地の適地であることなどが理由でした。
専平らが地元の人々の意見を聞いたところ、“久原工場”建設計画は満場一致で賛成。土地買収を斡旋する機関が1町5村
(※6)で作られ、専平も役員となります。房之助からは下松町民にとって町の明け渡し同然といえる、さらに約70万坪を求められ、地元は困惑しながらも、町議会で一部の土地の寄付を決定するなど、計画の実現へ向けて協力していきます。
専平も工場用地となった人々の移転先を探すことに心を砕き、自身も塩田や矢嶋邸を手放し、率先して移転することに。近年再発見された専平の手記
(※7)によれば、父・作郎がその景色を愛していたことなどを思い、時には「夜を泣き明かし」ながらも「地方の発展と公益のため」手放すことを決意したとあります。
ところが当時は第一次世界大戦中で同年9月、アメリカが軍需物資である鉄鋼の輸出を禁止。房之助は苦境に陥り、計画を大幅に縮小し、社名も久原工場ではなく、日本汽船株式会社笠戸造船所へ変更します。社名が下松町に伝わったのは12月。笠戸は隣村の地名だったことから町議会は「当町の面目ヲ没却」するものだと紛糾します。社名は変わらず、事業は開始されますが翌年、造船を中止し、機械製造へ変更することや人員整理が発表され、地元は大混乱に。そんな苦境にあって工場長
(※8)が機関車製造を手掛けることを決断すると次第に鉄道省などから注文が増え、工場は大正10(1921)年、日本汽船から売却されて日立製作所の所属となります
(※9)。
この間、計画が大幅に縮小・変更されたため、土地の買収を斡旋してきた地元関係者は窮地に立たされ、まさにその一人が専平でした。手記には「久原氏が事業遂行不能の挨拶をされたとき(中略)実に遺憾に堪えず(中略)何とかして小工業でもいいから経営するべきだと強要した」とあり、工場長と苦労した日々を次のように明かしています。「私の地主に対する道徳上の煩悶苦心と時を同じくしていたために、たがいに同情し、時には酒を飲みながら抱き合って泣いた」…。
その後、専平らは計画が頓挫した広大な用地を生かすため工場誘致に奔走。挫折を再び味わいながらも、やがて一帯にはさまざまな企業が進出。そして機関車製造を手掛けた工場は時を経て今や、新幹線の製造をはじめ、鉄道発祥の地・イギリスなどへも高速鉄道を輸出する、日本が誇る企業の一つ
(※10)となりました。