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「矢嶋邸写真」(部分)(下松市郷土資料展示収蔵施設「島の学び舎」蔵)の写真

「矢嶋邸写真」(部分)(下松市郷土資料展示収蔵施設「島の学び舎」蔵)。手前は塩田。その向こうに矢嶋邸の白壁や門が見える

矢嶋作郎・矢島専平と、ものづくりのまち下松
第2回 矢島専平と、久原房之助の「下松大工業都市建設計画」

“日本初の電力会社”を創設した矢嶋作郎。その跡を継いだ矢島専平に持ち掛けられた、大実業家・久原房之助の壮大な夢が、ものづくりのまち下松を生んだことを紹介します。
“日本初の電力会社”東京電燈会社を創設した矢嶋作郎(やじま さくろう)(※1)が帰郷し、居を構えた地は、広大な塩田が広がる下松(現在の下松市)・宮ノ洲でした。
宮ノ洲は瀬戸内海へ向かって砂州が伸びた一帯で、海峡をはさんで笠戸島が位置する風光明媚な地。江戸中期には、大規模な塩田開発などが行われ、開発と経営を手掛けた宮洲屋(※2)は当時、全国長者番付に周防(現在の山口県東部)から唯一載った豪商でした。宮洲屋は宝永6(1709)年、塩田の西の浜に石垣と白壁の練塀で囲まれ、海を眺望できる二階家を構えた別邸を建築。風格ある別邸は徳山藩主から「覧海軒(らんかいけん)」と命名され、歴代の藩主も訪れたほか、諸国を旅した備中(現在の岡山県西部)の地理学者からも「小なる城を見るがごとく」と例えられた(※3)ほどでした。
時を経て明治20年代、その“小なる城”の地を手に入れたのが矢嶋作郎。そして作郎の死後、屋敷や塩田一帯を受け継いだのが、娘婿の矢島専平(せんぺい)でした。

未完に終わった壮大な夢から生まれた、ものづくりのまち

専平は陸軍大尉で、退役後、下松銀行の役員に。そうした中で大正6(1917)年春、専平をはじめ下松町などの有力者らに壮大な話が舞い込みます。萩出身で国内屈指の実業家だった久原房之助(くはら ふさのすけ)(※4)が、宮ノ洲がある下松町などに世界有数の工業都市をつくりたいと相談してきたのです。それは下松町から太華村(現在の周南市)までの約90万坪に造船・製鉄などの工場を建設するとともに、1町3村にわたる新市街に上下水道・電車・劇場なども整備するという「下松大工業都市建設計画」。下松に着目したのは、下松が房之助の叔父で大実業家の藤田伝三郎(ふじた でんざぶろう)(※5)の父祖の地だったことや、良港を擁していること、塩田一帯が工場用地の適地であることなどが理由でした。
専平らが地元の人々の意見を聞いたところ、“久原工場”建設計画は満場一致で賛成。土地買収を斡旋する機関が1町5村(※6)で作られ、専平も役員となります。房之助からは下松町民にとって町の明け渡し同然といえる、さらに約70万坪を求められ、地元は困惑しながらも、町議会で一部の土地の寄付を決定するなど、計画の実現へ向けて協力していきます。
専平も工場用地となった人々の移転先を探すことに心を砕き、自身も塩田や矢嶋邸を手放し、率先して移転することに。近年再発見された専平の手記(※7)によれば、父・作郎がその景色を愛していたことなどを思い、時には「夜を泣き明かし」ながらも「地方の発展と公益のため」手放すことを決意したとあります。
ところが当時は第一次世界大戦中で同年9月、アメリカが軍需物資である鉄鋼の輸出を禁止。房之助は苦境に陥り、計画を大幅に縮小し、社名も久原工場ではなく、日本汽船株式会社笠戸造船所へ変更します。社名が下松町に伝わったのは12月。笠戸は隣村の地名だったことから町議会は「当町の面目ヲ没却」するものだと紛糾します。社名は変わらず、事業は開始されますが翌年、造船を中止し、機械製造へ変更することや人員整理が発表され、地元は大混乱に。そんな苦境にあって工場長(※8)が機関車製造を手掛けることを決断すると次第に鉄道省などから注文が増え、工場は大正10(1921)年、日本汽船から売却されて日立製作所の所属となります(※9)
この間、計画が大幅に縮小・変更されたため、土地の買収を斡旋してきた地元関係者は窮地に立たされ、まさにその一人が専平でした。手記には「久原氏が事業遂行不能の挨拶をされたとき(中略)実に遺憾に堪えず(中略)何とかして小工業でもいいから経営するべきだと強要した」とあり、工場長と苦労した日々を次のように明かしています。「私の地主に対する道徳上の煩悶苦心と時を同じくしていたために、たがいに同情し、時には酒を飲みながら抱き合って泣いた」…。
その後、専平らは計画が頓挫した広大な用地を生かすため工場誘致に奔走。挫折を再び味わいながらも、やがて一帯にはさまざまな企業が進出。そして機関車製造を手掛けた工場は時を経て今や、新幹線の製造をはじめ、鉄道発祥の地・イギリスなどへも高速鉄道を輸出する、日本が誇る企業の一つ(※10)となりました。
かつて藩主や矢嶋作郎、矢島専平らが愛した宮ノ洲。未完に終わった久原房之助の壮大な夢は、図らずも現在のものづくりのまち下松を生んだのでした。
「覧海軒図」(山口県立山口博物館蔵)の写真
「覧海軒図」(山口県立山口博物館蔵)の写真

「覧海軒図」(山口県立山口博物館蔵)。宮洲屋(磯部家)の別邸「覧海軒」が描かれた江戸時代の絵図。二階から海や塩田を眺める人々や、塩田で塩づくりに従事する人々などが克明に描かれている
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「覧海軒図」(山口県立山口博物館蔵)。宮洲屋(磯部家)の別邸「覧海軒」が描かれた江戸時代の絵図。二階から海や塩田を眺める人々や、塩田で塩づくりに従事する人々などが克明に描かれている
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国指定重要文化財「三角縁盤龍鏡」(東京国立博物館蔵)の写真
国指定重要文化財「三角縁盤龍鏡」(東京国立博物館蔵)の写真

国指定重要文化財「三角縁盤龍鏡」(東京国立博物館蔵)出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp/)。宮洲屋が享和2(1802)年、宮ノ洲山近くの松林を開作中、宮ノ洲古墳を発見。石室から三角縁盤龍鏡など中国製3面・日本製1面の青銅鏡などが出土した。一帯が工場用地となり、古墳は昭和27(1952)年、消滅した。古墳の被葬者は、貴重な中国製鏡を3面も持っていたことから、瀬戸内海の海上交通に深く関わり、畿内の勢力と密接な関係を持った豪族と考えられている
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国指定重要文化財「三角縁盤龍鏡」(東京国立博物館蔵)出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp/)。宮洲屋が享和2(1802)年、宮ノ洲山近くの松林を開作中、宮ノ洲古墳を発見。石室から三角縁盤龍鏡など中国製3面・日本製1面の青銅鏡などが出土した。一帯が工場用地となり、古墳は昭和27(1952)年、消滅した。古墳の被葬者は、貴重な中国製鏡を3面も持っていたことから、瀬戸内海の海上交通に深く関わり、畿内の勢力と密接な関係を持った豪族と考えられている
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「矢嶋邸水彩画 矢嶋邸の門」(下松市郷土資料展示収蔵施設「島の学び舎」蔵)の写真
「矢嶋邸水彩画 矢嶋邸の門」(下松市郷土資料展示収蔵施設「島の学び舎」蔵)の写真

「矢嶋邸水彩画 矢嶋邸の門」(下松市郷土資料展示収蔵施設「島の学び舎」蔵)。専平が屋敷地を手放すに当たり、専平から依頼された画家・小林重三(こばやし しげかず)が大正12(1923)年ごろ描いたもの。なお、矢嶋邸は現存しない。現在は東洋鋼鈑株式会社下松事業所の敷地内、大谷川と県道笠戸島公園線に挟まれた一画。老松が往時をしのばせる
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「矢嶋邸水彩画 矢嶋邸の門」(下松市郷土資料展示収蔵施設「島の学び舎」蔵)。専平が屋敷地を手放すに当たり、専平から依頼された画家・小林重三(こばやし しげかず)が大正12(1923)年ごろ描いたもの。なお、矢嶋邸は現存しない。現在は東洋鋼鈑株式会社下松事業所の敷地内、大谷川と県道笠戸島公園線に挟まれた一画。老松が往時をしのばせる
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「矢嶋邸水彩画 正面玄関車寄せ」(下松市郷土資料展示収蔵施設「島の学び舎」蔵)の写真
「矢嶋邸水彩画 正面玄関車寄せ」(下松市郷土資料展示収蔵施設「島の学び舎」蔵)の写真

「矢嶋邸水彩画 正面玄関車寄せ」(下松市郷土資料展示収蔵施設「島の学び舎」蔵)。石畳の先に車寄せのある玄関が描かれ、風格ある屋敷だったことが分かる。矢嶋邸の写真は少なく、これらの絵は貴重な史料といえる
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「矢嶋邸水彩画 正面玄関車寄せ」(下松市郷土資料展示収蔵施設「島の学び舎」蔵)。石畳の先に車寄せのある玄関が描かれ、風格ある屋敷だったことが分かる。矢嶋邸の写真は少なく、これらの絵は貴重な史料といえる
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「矢嶋邸水彩画 弁財天社」(下松市郷土資料展示収蔵施設「島の学び舎」蔵)の写真
「矢嶋邸水彩画 弁財天社」(下松市郷土資料展示収蔵施設「島の学び舎」蔵)の写真

「矢嶋邸水彩画 弁財天社」(下松市郷土資料展示収蔵施設「島の学び舎」蔵)。邸内には、弁財天社があった。江戸時代の絵図「東西豊井村地下図」(山口県文書館蔵)にも、磯部家の別邸敷地内に弁財天社は描かれている。なお、小林重三は図鑑などに優れた鳥類画などを描いた画家
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「矢嶋邸水彩画 弁財天社」(下松市郷土資料展示収蔵施設「島の学び舎」蔵)。邸内には、弁財天社があった。江戸時代の絵図「東西豊井村地下図」(山口県文書館蔵)にも、磯部家の別邸敷地内に弁財天社は描かれている。なお、小林重三は図鑑などに優れた鳥類画などを描いた画家
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「矢嶋邸水彩画 大坂城残石の庭石」(下松市郷土資料展示収蔵施設「島の学び舎」蔵)の写真
「矢嶋邸水彩画 大坂城残石の庭石」(下松市郷土資料展示収蔵施設「島の学び舎」蔵)の写真

「矢嶋邸水彩画 大坂城残石の庭石」(下松市郷土資料展示収蔵施設「島の学び舎」蔵)。矢嶋邸内には大坂城築城の残石が二つあった。その一つは専平が昭和5(1930)年、現在の山口県立山口博物館へ寄贈(現在、前庭にある)。残石は大津島(現在の周南市)で切りだされたもので、毛利輝元(もうり てるもと)による豊臣秀吉の大坂城築城時の石と伝えられてきたが、近年、毛利秀就(ひでなり)による徳川氏の大坂城普請時の石と考えられる
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「矢嶋邸水彩画 大坂城残石の庭石」(下松市郷土資料展示収蔵施設「島の学び舎」蔵)。矢嶋邸内には大坂城築城の残石が二つあった。その一つは専平が昭和5(1930)年、現在の山口県立山口博物館へ寄贈(現在、前庭にある)。残石は大津島(現在の周南市)で切りだされたもので、毛利輝元(もうり てるもと)による豊臣秀吉の大坂城築城時の石と伝えられてきたが、毛利秀就(ひでなり)による徳川氏の大坂城普請時の石と考えられる
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  1. おもしろ山口学「矢嶋作郎・矢島専平と、ものづくりのまち下松 第1回 “日本初の近代的紙幣”造りと“日本初の電力会社”に関わった矢嶋作郎と渋沢栄一」参照。本文※1へ戻る
  2. 下松の有力町人だった磯部(いそべ)家の当主が、家督を長男に譲った後、次男と共に興した分家の屋号。本文※2へ戻る
  3. 古川古松軒(ふるかわ こしょうけん)の紀行文『西遊雑記(さいゆうざっき)』。本文※3へ戻る
  4. 日立鉱山の開発者で、久原鉱業所を設立し、第一次世界大戦中、巨利を築くが大戦後、事業が悪化。経営再建を妻の兄、山口出身の鮎川義介(あゆかわ よしすけ)に託し、政界へ転じた。本文※4へ戻る
  5. 琵琶湖疏水(びわこそすい)などの土木事業、小坂鉱山などの鉱山経営、関西電力の創立など、多彩な事業を展開し、藤田財閥を築いた実業家。本文※5へ戻る
  6. 当時の下松町・末武南村・末武北村・久保村(現在の下松市)、太華村・久米村(現在の周南市)。本文※6へ戻る
  7. 専平が昭和14(1939)年、下松町など1町3村が合併して下松市が誕生する直前にまとめた手記『秋の夜話(やわ)』。引用は『復刻版 秋の夜話』より。本文※7へ戻る
  8. 川崎車輛株式会社の車輛課長だった古山石之助(ふるやま いしのすけ)を所長として迎えた。本文※8へ戻る
  9. 2月、日立製作所の付属工場となり、5月、株式会社日立製作所笠戸工場となった。本文※9へ戻る
  10. 現在の社名は株式会社日立製作所鉄道ビジネスユニット笠戸事業所。本文※10へ戻る

下松市立図書館 下松市郷土資料・文化遺産デジタルアーカイブ

宮ノ洲の塩田を描いた江戸時代の絵図や、矢嶋邸を写した古写真など、貴重な史料をインターネット上で閲覧できます。また、かつての矢嶋邸(現存しない)を大正12(1923)年ごろに描いた貴重な水彩画なども先日新たに追加されました。

参考文献