明治10(1877)年、作郎は紙幣寮を辞めて実業界へ転じ、やがて“日本初の貯蓄銀行
(※10)”として創設された東京貯蔵銀行
(※11)の頭取となります。
そんな中、作郎の最も代表的な業績につながる出会いが訪れます。それは工部大学校
(※12)で教職にあった岩国出身の藤岡市助(ふじおか いちすけ)
(※13)らが「我が国にも電燈会社の設立を」と提唱したことでした。耳を傾ける者がいない中、作郎は事業の有望性を見抜き、大倉喜八郎(おおくら きはちろう)
(※14)や三野村利助(みのむら りすけ)
(※15)、柏村信(かしわむら まこと)
(※16)らに相談。最終的に作郎をはじめ9人を発起人として、明治16(1883)年2月、東京電燈会社を設立。作郎が社長に就任します。
実は藤岡市助らの提言が実るには、市助がふるさとの先輩たちに相談したところ“長州ファイブ”の一人・山尾庸三
(※17)から志を賞賛され、庸三が作郎を紹介した経緯もありました。同社の重役に就いた柏村信も萩藩出身。作郎をはじめ長州のネットワークにも支えられて誕生した東京電燈会社であり、その誕生には渋沢栄一も力を貸していました
(※18)。
明治19(1886)年、作郎は同社の技師長として迎えた市助と共に火力発電所建設に向けて視察などのため英米へ出張。その年、同社は日本初の電球製造事業も始めています。明治23(1890)年には、内国勧業博覧会で上野公園内に電車を走らせ、12階建ての浅草凌雲閣に電動エレベーターの運転を開始するなど、日本初のことを次々と手掛けます。そして作郎と共に大阪紡績会社
(※19)の創立に深く関わり、重役を共に務めていた渋沢栄一が同年、東京電燈会社の相談役に就任します。
ところが明治24(1891)年、事件が起きます。帝国議事堂が火事で焼失。その原因が東京電燈会社にあるとされたのです。翌年、責任をとり、作郎も栄一も含め役員総辞職へ。作郎はその後、実業界から離れて帰郷し、下松に居を定めます。作郎は歌人でもあり、帰郷後は徳山ゆかりの亡き歌人
(※20)の歌集を出版するなど、地方の文化の発展に寄与していきました。
近代化を急いだ明治期の日本。東京電燈会社の創立願には「電気燈をたやすく日用に供する日がくれば(中略)誠に公衆の幸福、ここにあり」とありました。明治初期に欧州へ渡り、大蔵省を経て実業界へ…という似た足跡を歩んだ作郎と栄一。“公衆の幸福”についてどこかで共に語り合っていたかもしれません。