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三代歌川広重(うたがわ ひろしげ)画「東京名所 常盤橋内紙幣寮新建之図」(国立印刷局 お札と切手の博物館所蔵)の写真

三代歌川広重(うたがわ ひろしげ)画「東京名所 常盤橋内紙幣寮新建之図」(国立印刷局 お札と切手の博物館所蔵)。明治9(1876)年、東京大手町に完成した赤レンガ造りの紙幣寮製造工場「朝陽閣」

矢嶋作郎・矢島専平と、ものづくりのまち下松
第1回“日本初の近代的紙幣”造りと“日本初の電力会社”に関わった矢嶋作郎と渋沢栄一

今、話題の明治時代の実業家・渋沢栄一。同じ時代を生き、同じように海外渡航を経て、 維新政府や実業界で栄一と関わり合った山口県出身の実業家・矢嶋作郎を紹介します。
矢嶋作郎(やじま さくろう)は“日本初の近代的紙幣”いわゆるゲルマン紙幣の製造に深く関わり、“日本初の電力会社”を創設した人物。実はそれら複数の業績で渋沢栄一(しぶさわ えいいち)(※1)との縁がありました。
作郎は徳山(現在の周南市)出身。天保10(1839)年、徳山藩士の家に生まれました(※2)。転機は明治元(1868)年、藩主の養嗣子・毛利元功(もうり もといさ)の英国留学に随行する一人に選ばれたこと。現地では経済学を修めたといいます。
折しもこのころ明治政府では、全国に通用する紙幣(※3)を発行したものの、贋札(がんさつ)が横行する事態となっていました。大蔵省は明治3(1870)年、偽造防止技術が万全な外国での紙幣製造を考え、ドイツの印刷所(※4)に製造を委託(※5)。2年後にも追加分を契約します。契約書には日本人官吏による作業チェック方法も記され、その監督実務に当たった人物こそ、欧州に滞在中の作郎でした。作郎は極めて厳格な管理を行い、ドイツで製造されたゲルマン紙幣は、日本に到着し、さらに検査を終えると「明治通宝」の文字押印などの作業を経て発行へ。そのころまさに大蔵省紙幣寮で初代紙幣頭(しへいのかみ)(※6)を務めていた人物が、渋沢栄一でした(※7)
やがて栄一は大蔵省を辞しますが、紙幣寮では3代目の紙幣頭・得能良介(とくのう りょうすけ)の下で紙幣の国産化計画が進められます。そうした中、作郎は明治7(1874)年に帰国。ドイツでの仕事が評価されて紙幣助(しへいのすけ)(※8)となり、新設する紙幣工場の設計原案を作成するなど活躍していきます(※9)

作郎が初代社長、栄一が相談役を務めた東京電燈会社

明治10(1877)年、作郎は紙幣寮を辞めて実業界へ転じ、やがて“日本初の貯蓄銀行(※10)”として創設された東京貯蔵銀行(※11)の頭取となります。
そんな中、作郎の最も代表的な業績につながる出会いが訪れます。それは工部大学校(※12)で教職にあった岩国出身の藤岡市助(ふじおか いちすけ)(※13)らが「我が国にも電燈会社の設立を」と提唱したことでした。耳を傾ける者がいない中、作郎は事業の有望性を見抜き、大倉喜八郎(おおくら きはちろう)(※14)や三野村利助(みのむら りすけ)(※15)、柏村信(かしわむら まこと)(※16)らに相談。最終的に作郎をはじめ9人を発起人として、明治16(1883)年2月、東京電燈会社を設立。作郎が社長に就任します。
実は藤岡市助らの提言が実るには、市助がふるさとの先輩たちに相談したところ“長州ファイブ”の一人・山尾庸三(※17)から志を賞賛され、庸三が作郎を紹介した経緯もありました。同社の重役に就いた柏村信も萩藩出身。作郎をはじめ長州のネットワークにも支えられて誕生した東京電燈会社であり、その誕生には渋沢栄一も力を貸していました(※18)
明治19(1886)年、作郎は同社の技師長として迎えた市助と共に火力発電所建設に向けて視察などのため英米へ出張。その年、同社は日本初の電球製造事業も始めています。明治23(1890)年には、内国勧業博覧会で上野公園内に電車を走らせ、12階建ての浅草凌雲閣に電動エレベーターの運転を開始するなど、日本初のことを次々と手掛けます。そして作郎と共に大阪紡績会社(※19)の創立に深く関わり、重役を共に務めていた渋沢栄一が同年、東京電燈会社の相談役に就任します。
ところが明治24(1891)年、事件が起きます。帝国議事堂が火事で焼失。その原因が東京電燈会社にあるとされたのです。翌年、責任をとり、作郎も栄一も含め役員総辞職へ。作郎はその後、実業界から離れて帰郷し、下松に居を定めます。作郎は歌人でもあり、帰郷後は徳山ゆかりの亡き歌人(※20)の歌集を出版するなど、地方の文化の発展に寄与していきました。
近代化を急いだ明治期の日本。東京電燈会社の創立願には「電気燈をたやすく日用に供する日がくれば(中略)誠に公衆の幸福、ここにあり」とありました。明治初期に欧州へ渡り、大蔵省を経て実業界へ…という似た足跡を歩んだ作郎と栄一。“公衆の幸福”についてどこかで共に語り合っていたかもしれません。
「新紙幣(ゲルマン紙幣)10円」(国立印刷局 お札と切手の博物館所蔵)の写真
「新紙幣(ゲルマン紙幣)10円」(国立印刷局 お札と切手の博物館所蔵)の写真

ドイツ製の日本のお札「新紙幣(ゲルマン紙幣)10円」(国立印刷局 お札と切手の博物館所蔵)。明治5(1872)年発行。日本初の近代的な印刷で製造されたお札で、作郎はドイツでゲルマン紙幣製造の監督実務に当たった
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ドイツ製の日本のお札「新紙幣(ゲルマン紙幣)10円」(国立印刷局 お札と切手の博物館所蔵)。明治5(1872)年発行。日本初の近代的な印刷で製造されたお札で、作郎はドイツでゲルマン紙幣製造の監督実務に当たった
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「改造紙幣(神功皇后札)1円」(国立印刷局 お札と切手の博物館所蔵)の写真
「改造紙幣(神功皇后札)1円」(国立印刷局 お札と切手の博物館所蔵)の写真

日本初の肖像入りのお札「改造紙幣(神功皇后札)1円」(国立印刷局 お札と切手の博物館所蔵)。ゲルマン紙幣に替わって製造され、明治14(1881)年発行。デザインと原版彫刻は御雇外国人キヨッソーネ。なお、キヨッソーネは萩藩主・毛利敬親(もうり たかちか)の肖像画も制作している
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日本初の肖像入りのお札「改造紙幣(神功皇后札)1円」(国立印刷局 お札と切手の博物館所蔵)。ゲルマン紙幣に替わって製造され、明治14(1881)年発行。デザインと原版彫刻は御雇外国人キヨッソーネ。なお、キヨッソーネは萩藩主・毛利敬親(もうり たかちか)の肖像画も制作している
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「矢嶋作郎肖像画」(部分)(下松市郷土資料展示収蔵施設「島の学び舎」蔵)
「矢嶋作郎肖像画」(部分)(下松市郷土資料展示収蔵施設「島の学び舎」蔵)

「矢嶋作郎肖像画」(部分)(下松市郷土資料展示収蔵施設「島の学び舎」蔵)。作郎は実業界を離れて山口県へ帰郷し、下松に居を定めた。以後、地方の文化振興に寄与したほか、衆議院議員を務め、明治44(1911)年に亡くなった
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「矢嶋作郎肖像画」(部分)(下松市郷土資料展示収蔵施設「島の学び舎」蔵)。作郎は実業界を離れて山口県へ帰郷し、下松に居を定めた。以後、地方の文化振興に寄与したほか、衆議院議員を務め、明治44(1911)年に亡くなった
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明治19(1886)年の「殷煥電燈の広告」(岩国学校教育資料館蔵)の写真
明治19(1886)年の「殷煥電燈の広告」(岩国学校教育資料館蔵)の写真

明治19(1886)年の「殷煥電燈の広告」(岩国学校教育資料館蔵)。作郎が社長、藤岡市助が技師長だったときの東京電燈会社の広告。殷煥電燈とは白熱電球のこと。広告には「燈光極めて清鮮なり」「悪臭なし」などとある。白熱灯は国内で、この年初めて披露された
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明治19(1886)年の「殷煥電燈の広告」(岩国学校教育資料館蔵)。作郎が社長、藤岡市助が技師長だったときの東京電燈会社の広告。殷煥電燈とは白熱電球のこと。広告には「燈光極めて清鮮なり」「悪臭なし」などとある。白熱灯は国内で、この年初めて披露された
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「大正6(1917)年下松宮ノ洲写真」(部分)(個人蔵)
「大正6(1917)年下松宮ノ洲写真」(部分)(個人蔵)

「大正6(1917)年下松宮ノ洲写真」(部分)(個人蔵)。笠戸島本浦(写真手前)から現在は笠戸大橋がかかる海峡を撮影した写真。海を隔てた中央右手の小高い山は本土の桂木山。山麓の右は宮の洲といい、かつて塩田が広がっていた。山の左側に伸びた砂洲の先端付近には、作郎が明治26(1893)年に建てた巨大な石造りの灯明台があった。なお、拡大写真は一部。船の左後方に灯明台が白く写っている
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「大正6(1917)年下松宮ノ洲写真」(部分)(個人蔵)。笠戸島本浦(写真手前)から現在は笠戸大橋がかかる海峡を撮影した写真。海を隔てた中央右手の小高い山は本土の桂木山。山麓の右は宮の洲といい、かつて塩田が広がっていた。山の左側に伸びた砂洲の先端付近には、作郎が明治26(1893)年に建てた巨大な石造りの灯明台があった。なお、拡大写真は一部。船の左後方に灯明台が白く写っている
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現在の灯明台(下松市提供)の写真
現在の灯明台(下松市提供)の写真

現在の灯明台(下松市提供)。作郎が建てた灯明台は現在、県道山口・下松線(旧国道188号)沿いの市衛生センター入口付近に移築されている。高さ約5メートル。現在は台上の火袋などは失われている。作郎は笠戸湾に出入りする船舶の航路標識、海上安全のため、私財で灯明台を建設した
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現在の灯明台(下松市提供)。作郎が建てた灯明台は現在、県道山口・下松線(旧国道188号)沿いの市衛生センター入口付近に移築されている。高さ約5メートル。現在は台上の火袋などは失われている。作郎は笠戸湾に出入りする船舶の航路標識、海上安全のため、私財で灯明台を建設した
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  1. 多くの会社の設立に参画し、 「道徳経済合一主義」を唱え実践した実業家。本文※1へ戻る
  2. 元の姓は伊藤。矢嶋は、英国留学に際し、日本を意味する「八洲(やしま)」から付けたという。本文※2へ戻る
  3. 太政官札。慶応4・明治元(1868)年5月発行。本文※3へ戻る
  4. ドンドルフ・ナウマン印刷所。ドイツ北部連邦の公使が外務省を訪問し、新発明した技術を持ち、イタリア王国の紙幣を製造中だった同印刷所を推薦。当時、同印刷所には紙幣の彫刻のためイタリアから派遣された彫刻師キヨッソーネがいた。本文※4へ戻る
  5. 新紙幣9券種7,604万枚の製造をロンドンで契約。本文※5へ戻る
  6. 紙幣寮で最上位の官。明治4(1871)年、大蔵省に紙幣司(まもなく紙幣寮に改称)が新設され、栄一が初代紙幣頭となった。本文※6へ戻る
  7. 栄一は明治6(1873)年、上司の井上馨(いのうえ かおる)の辞任に伴い、大蔵省を辞任。本文※7へ戻る
  8. 紙幣寮の次長格。本文※8へ戻る
  9. 明治9(1876)年、東京大手町に赤レンガ造りの紙幣寮製造工場「朝陽閣」が完成。設計は御雇外国人のウォートルスとボアンヴィル。紙幣工場には、ドンドルフ・ナウマン印刷所より機械一式を買い入れた。また、ロンドンの証券印刷会社に移っていたキヨッソーネを、在欧の外交官による交渉を通じ、紙幣原版彫刻技師として招いた。本文※9へ戻る
  10. 比較的零細な貯金を保管・利殖する金融機関。本文※10へ戻る
  11. 明治13(1880)年創設。『本邦貯蓄銀行史』によれば、創設の中心人物で初代頭取は原六郎(はら ろくろう)で、東京電燈会社の発起人の一人。幕末、長州の遊撃隊に参加した。本文※11へ戻る
  12. 御雇外国人の教師による高等な工業技術教育機関。幕末、萩藩からイギリスへ留学した“長州ファイブ”の伊藤博文(いとう ひろぶみ)や山尾庸三(やまお ようぞう)らが政府に強く主張し、設立された。本文※12へ戻る
  13. 日本の電気の父、日本のエジソンとして知られる。“からくり儀右衛門(ぎえもん)”田中久重(たなか ひさしげ)と並ぶ、東芝の創業者の一人。本文※13へ戻る
  14. 越後国(現在の新潟県)生まれの大倉財閥の創始者。本文※14へ戻る
  15. 京都生まれの実業家。三井の大番頭・三野村利左衛門(りざえもん)の婿養子となった。本文※15へ戻る
  16. 元萩藩士。廃藩置県後、毛利家の家令に。東京電燈会社創立には毛利家も関わり、毛利家を代表して柏村信が発起人の一人となったという。本文※16へ戻る
  17. 工学寮(工部大学校)を開校させた人物で“日本の工学の父”といわれる。訓盲院(後に訓盲唖院、東京盲唖学校などへ改称)の開校にも尽力。作郎も同校を支援した。本文※17へ戻る
  18. 創業時の株主の一人。『東京電燈株式会社開業五十年史』によれば「(会社の)成立に対して大いに斡旋の労を取られた模様」とある。本文※18へ戻る
  19. 栄一が主唱し、作郎も創立願書の5人のうちの一人で取締役となって明治15(1882)年創立。取締役頭取は、創立願書にも名がある長州出身で藤田財閥の藤田伝三郎(ふじた でんざぶろう)。大規模経営により日本で最初に成功した紡績企業。本文※19へ戻る
  20. 中山三屋(なかやま みや)。三屋女・みや子などの表記もある。幕末維新期に歌人として活躍。旅と歌に生き、志士とも交流があった。33回忌の際、作郎は歌集を出版し、周南市富田の善宗寺の墓所に碑を建てた。本文※20へ戻る

下松市立図書館 企画展「渋沢栄一と矢嶋作郎」

渋沢栄一と矢嶋作郎。二人の生き方を資料に基づいて紹介するとともに、実業界から引退した矢嶋作郎が下松で地方の文化の発展に貢献したことを、パネルと関連図書の展示を通して紹介します。
開催期間:11月26日(金曜日)から12月22日(水曜日)まで

岩国学校教育資料館「藤岡市助記念コーナー」

明治4(1871)年に岩国英語語学所として開校した校舎を使用した展示施設。藤岡市助記念コーナーでは、市助の関連資料を多数展示しています。

参考文献