拝殿前の狛犬は前脚のもりもりとした巻き毛や、台座が「工」の字状であること
(※7)に特徴があります。そして、その特徴にそっくりの狛犬が、拝殿前から石段や参道を下り、100メートル以上離れた石鳥居のそばにもあります。特に石鳥居に向かって右(西)はかつてのままの狛犬で、台座には「山田村 寛政二庚戌」などの銘
(※8)。文書や狛犬の特徴、銘から、この狛犬こそ、拝殿前の狛犬と同時に寄進を許可された、もう一対のうちの一体だと分かります。
この二対の狛犬については他にも記録があることが分かりました。徳山藩の『御蔵本(おくらもと)日記
(※9)』同年3月23日条に2通の文書が書き写されており、1通は鷲頭寺が藩の寺社奉行へ狛犬二対の寄進許可を願い出た3月13日付けの文書。もう1通は山田村の農民たちが畔頭(くろがしら)
(※10)と庄屋へ、さらに畔頭と庄屋が添え書きして藩へ願い出た3月17日付けのもの。後者には次のように記されています。
「山田村で去る冬、流行病(はやりやまい)があり、妙見山へ石の狛犬一対を寄進して願掛したいので、なにとぞお許しください(後略)」
(※11)。
18世紀前半の事例ですが、玖珂郡の本郷村
(※12)周辺では、赤痢の類いや腸チフス、疱瘡(ほうそう。天然痘)などの感染症に度々苦しめられており
(※13)、寛政元(1789)年冬の山田村の流行病もそうしたものでは、と推測されます
(※14)。
石造狛犬の寄進は18世紀に入って大坂でブームとなったのを受けて、防長では18世紀半ばから本格化しました。当初は大坂で造られた狛犬を寄進。18世紀後半になると下関・秋穂・徳山・萩など地元の石工たちが造り始めました
(※15)。妙見社の二対の狛犬はまさに18世紀後半で、徳山地方の石工の作では、と考えられます。邪から守護する狛犬本来の怖い顔ではありませんが、そのころならではの味のある表情といえます。
流行病に苦しんだ農民たちから願掛しようという声が生まれ、寺からも藩へ願い出て許可され、寄進された狛犬。さまざまな神社の境内に何気なくある古びた狛犬たちにも、先人たちの切々とした願いが込められているのだろうと、この狛犬たちは教えてくれます。