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(左)天王森古墳から出土・復元した大刀形埴輪の写真と(右)形象埴輪群が出土したときの様子の写真

(左)天王森古墳から出土・復元した大刀形埴輪。復元全長120センチメートル。(右)宅地開発に伴う周辺工事の際に形象埴輪群が出土したときの様子。造り出しにあった埴輪が濠に落ち、土の中で眠り続けたとみられている(写真はいずれも下松市教育委員会提供)

西日本有数の形象埴輪群が出土!! 下松 天王森古墳に眠る有力者とは?

下松市で“山口県初”のものを含む西日本有数の形象埴輪群が出土したことが、今年7月に発表されました。それは約1,500年前のもの。ヤマト王権との極めて強い結び付きも浮上した最新の話題を紹介します。
瀬戸内海に臨み、天然の良港に恵まれた下松(くだまつ)。海を見下ろす小高い丘にある「天王森(てんのうもり)古墳」(※1)の周囲から “山口県初”のものを含む数多くの形象埴輪(はにわ)(※2)などが出土したことが、今年7月に発表されました(※3)。その形象埴輪とは、大刀形(たちがた)埴輪や、巫女(みこ)、力士をかたどったものなど。特に大刀形埴輪は、西日本では東日本に比べて出土例が少なく、しかも非常に良い状態で出土。さらにヤマト王権との極めて強い結び付きも浮上したことから、大きな注目を集めています。
天王森古墳は前方後円墳で、前方後円墳とは、ヤマト王権との強い結び付きがあった地方の首長らに特有の古墳の形です。従来、天王森古墳についてはその形態などから6世紀前半に造られた、この地域の首長墓(※4)の一つと考えられてきました(※5)。埴輪は古墳を飾り、荘厳に見せるもの。埴輪も時代によって変遷することから、天王森古墳は今回出土の埴輪の特徴などからも、6世紀前半に造られたことが確かめられました。

継体天皇の墓とされる古墳の大刀形埴輪に酷似! ヤマト王権と極めて強い関係?!

今回出土したほとんどの形象埴輪は、前方後円墳のくびれの部分にあった「造り出し(※6)」に並んでいたとみられています。そこは墳丘の海側に位置する、海からよく見える場所。さまざまな形象埴輪は、その古墳に眠る人物の権威を、瀬戸内海を往来する人々に誇示していたと考えられます。
天王森古墳の特徴として、武器・武具を模した形象埴輪が多いことがあります(※7)。中でも大刀形(たちがた)埴輪1体は、復元した全長が約120センチメートルにもなる大型品。しかも、細部から全体まで、継体(けいたい)大王(天皇)(※8)の陵墓と推定されている「今城塚古墳(大阪府高槻市)」の大刀形埴輪とよく似ていることが分かりました。そのことから天王森古墳に眠る人物は「当時の王権に埴輪づくりの工人を派遣してもらえるほどの実力をもった有力人物(※9)」だった可能性が浮かび上ってきたのです。同時に、武器・武具の埴輪が多いことは「被葬者の生前の軍功」を反映した可能性もある(※10)とも示されました。
天王森古墳が築かれる前から、海のかなたの朝鮮半島では国々(※11)が対立していました。『日本書紀』には、5世紀後半、雄略(ゆうりゃく)天皇が朝鮮半島へ将軍らを派遣し、その一人、小鹿火宿祢(おかひのすくね)(※12)は帰路、角国(つののくに)に留まったことから角臣(つののおみ)と名付けられた…とあります。それは、角国に、ヤマト王権にとって重要な港があったことを物語るもの。“つの”は都怒・都濃などとも表記され、後の都濃郡は現在の下松市・周南市に当たります。天王森古墳に眠る人物は、そのとき角国に留まった小鹿火宿祢かその後継者?…という説(※13)も今回新たに示されました。
天然の良港を擁する下松は「三角縁盤龍鏡(ばんりゅうきょう)」など中国・日本製の青銅鏡4面が発見された「宮ノ洲古墳(※14)」などの古墳がある地。また、下松の地名は「百済津(くだらつ)」に由来するのではという説を唱えた歴史研究者(※15)もいます。さらに、下松には百済の王の第三王子がやってくることが予言されたという伝承(※16)もあります。6世紀前半に古墳を築き、埴輪に護られながら長い眠りについたのは、どんな人物だったのか。その確かな答えは謎ですが、埴輪群の発見は古くから重要な港があった下松のさまざまな歴史・伝承も想起させ、ヤマト王権や朝鮮半島とのつながりまで一層身近に感じさせてくれます。
巫女埴輪と大刀形埴輪の出土の様子の写真
巫女埴輪と大刀形埴輪の出土の様子の写真

出土の様子(下松市教育委員会提供)。この大刀形埴輪が今回復元されたもの。巫女は古墳の被葬者に祈りを捧げ、力士(この写真にはない)はその場を守護する役割があると考えられている。巫女は2体、力士は1体確認
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出土の様子(下松市教育委員会提供)。この大刀形埴輪が今回復元されたもの。巫女は古墳の被葬者に祈りを捧げ、力士(この写真にはない)はその場を守護する役割があると考えられている。巫女は2体、力士は1体確認
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家形埴輪の出土の様子の写真
家形埴輪の出土の様子の写真

出土の様子(下松市教育委員会提供)。家形埴輪は計4棟分を確認。それぞれ形状や装飾は異なる。写真の家形埴輪には、棟の上に直角に並べられた「堅魚木(かつおぎ)」がある。また、前方部の前端の濠からは猪や狩人と思われる埴輪の破片も出土
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出土の様子(下松市教育委員会提供)。家形埴輪は計4棟分を確認。それぞれ形状や装飾は異なる。写真の家形埴輪には、棟の上に直角に並べられた「堅魚木(かつおぎ)」がある。また、前方部の前端の濠からは猪や狩人と思われる埴輪の破片も出土
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天王森古墳から出土した大刀形埴輪の写真
天王森古墳から出土した大刀形埴輪の写真

天王森古墳から出土した大刀形埴輪。左は全体、右は部分(下松市教育委員会提供)。鞘(さや)に入った大刀を表したもの。大刀形埴輪には一般的に、柄の一部に鹿角(ろっかく)製の飾りが付いたものと、付かない大刀を模したものがある。これは鹿角製の飾りが付いた大刀を模したもの。鞘に付いたヒレのようなものと線刻により、盾を表現している
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天王森古墳から出土した大刀形埴輪。左は全体、右は部分(下松市教育委員会提供)。鞘(さや)に入った大刀を表したもの。大刀形埴輪には一般的に、柄の一部に鹿角(ろっかく)製の飾りが付いたものと、付かない大刀を模したものがある。これは鹿角製の飾りが付いた大刀を模したもの。鞘に付いたヒレのようなものと線刻により、盾を表現している
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大阪府高槻市の今城塚古墳から出土した大刀形埴輪の写真
大阪府高槻市の今城塚古墳から出土した大刀形埴輪の写真

大阪府高槻市の今城塚古墳から出土した大刀形埴輪。左は全体、右は部分(高槻市提供)。天王森古墳のものと同じく鹿角製の飾り付きで、柄の上部にはU字形の刳り込みもあり、鞘には盾部分もあるが、その線刻はより多い。なお、護拳部には、さまざまな表現があり、最後の写真を参照
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大阪府高槻市の今城塚古墳から出土した大刀形埴輪。左は全体、右は部分(高槻市提供)。天王森古墳のものと同じく鹿角製の飾り付きで、柄の上部にはU字形の刳り込みもあり、鞘には盾部分もあるが、その線刻はより多い。なお、護拳部には、さまざまな表現があり、最後の写真を参照
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天王森古墳から笠戸島までの風景の写真
天王森古墳から笠戸島までの風景の写真

天王森古墳から笠戸島までの風景(下松市教育委員会提供)。左下が天王森古墳。古墳は私有地で、周辺では宅地開発に伴う周辺工事が行われており、立ち入ることはできません
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天王森古墳から笠戸島までの風景(下松市教育委員会提供)。左下が天王森古墳。古墳は私有地で、周辺では宅地開発に伴う周辺工事が行われており、立ち入ることはできません
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大阪府高槻市の今城塚古墳から出土した大刀形埴輪の柄部分の写真
大阪府高槻市の今城塚古墳から出土した大刀形埴輪の柄部分の写真

大阪府高槻市の今城塚古墳から出土した大刀形埴輪の柄部分(高槻市提供)。護拳部はさまざまな表現のものがある。中でも左端のものや右から2番目のものが天王森古墳のものとよく似ている
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大阪府高槻市の今城塚古墳から出土した大刀形埴輪の柄部分(高槻市提供)。護拳部はさまざまな表現のものがある。中でも左端のものや右から2番目のものが天王森古墳のものとよく似ている
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  1. 全長約45メートル。高橋克壽「山口県下松市惣ヶ迫古墳の再検討」では50メートルを超える可能性も示された。本文※1へ戻る
  2. 人・家・器財・動物などをかたどった埴輪。本文※1へ戻る
  3. 多数の円筒埴輪(筒の形をした埴輪)も出土。本文※1へ戻る
  4. 被葬者としては都怒国造(つぬ(の)のくにのみやつこ)が想定される。都怒は、現在の下松市・周南市など。国造は、古代の地方豪族でヤマト王権から任命された地方官。本文※1へ戻る
  5. 『山口県史 資料編 考古2』2004。 本文※1へ戻る
  6. 墳丘から方形で張り出した場所。一部の古墳などでは、造り出しに形象埴輪が祭祀(さいし)などの様子を表現して並べられていた。本文※1へ戻る
  7. 盾4体・靫(ゆぎ)4体・大刀3体以上。靫は矢を入れて背に負うもの。本文※1へ戻る
  8. 6世紀初め、前の天皇の没後、後継者がいなかったため、越前(現在の福井県)あるいは近江(現在の滋賀県)から迎えられた。本文※1へ戻る
  9. 「天王森古墳の大刀形埴輪解説」『下松市広報 潮騒』No.1530(8月号) 2022。花園大学教授 高橋克壽(たかはし かつひさ)氏による。本文※1へ戻る
  10. 花園大学教授 高橋克壽氏。本文※10へ戻る
  11. ヤマト王権が特に密接な関係だった小国連合の加羅(から。伽耶)や百済(くだら)の他、新羅(しらぎ)。また、中国東北部から興った高句麗(こうくり)が南進策を進めていた。本文※11へ戻る
  12. 紀小弓宿祢(きのおゆみのすくね)らと共に新羅へ。紀氏(きし)一族という説がある。紀氏はヤマト王権の水軍などで活躍した、紀ノ川(和歌山県など)下流域を中心に勢力を持っていた一族。本文※12へ戻る
  13. 花園大学教授 高橋克壽氏。なお、『先代旧事本紀』では、都怒国造は紀氏と同じ祖を持つ人物だったとする。本文※13へ戻る
  14. 4世紀前半の築造とみられる。青銅鏡はいずれも国指定重要文化財。古墳は消滅している。おもしろ山口学「矢嶋作郎・矢島専平とものづくりのまち下松 第2回 矢島専平と、久原房之助の『下松大工業都市建設計画』」参照。本文※14へ戻る
  15. 御薗生翁甫(みそのお おうすけ)。『防長地名淵鑑』1974による。本文※15へ戻る
  16. 室町時代、山口を本拠に西国一の力を誇った大名・大内(おおうち)氏の祖先伝承。本文※16へ戻る

下松市天王森古墳大刀形埴輪公開展示

復元された大刀形埴輪1体と円筒埴輪1体を公開展示しています。今回復元された大刀形埴輪は、今城塚古墳出土のものと特徴がとてもよく似ている埴輪。遺存状態が良く、近畿地方より西の地域で全形が復元できた初めての例としても大変貴重です。
開催期間:9月29日(木曜日)まで
場所:スターピアくだまつ ハート・フロアー

参考文献