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(左)降松神社若宮拝殿前の狛犬、(中)「御蔵本日記」(山口県文書館蔵 徳山毛利家文庫)、(右)降松神社参道、石鳥居に向かって右の狛犬の写真

(左)降松神社若宮拝殿前の狛犬。(中)「御蔵本日記」(山口県文書館蔵 徳山毛利家文庫)。(右)降松神社参道、石鳥居に向かって右の狛犬。いずれも寛政2(1790)年寄進

江戸時代、下松・妙見社に寄進された狛犬と流行病(はやりやまい)

狛犬がなぜそこにあるのか…。下松市鷲頭山、現在の降松神社に鎮座する江戸時代の狛犬は、寄進理由や経緯が分かる興味深い例です。江戸時代の記録を通して紹介します。
神社でおなじみの狛犬(こまいぬ)。地域などによって異なる姿形に魅せられる人たちが近年増えています。「なぜそこに…」については不明な場合が多く、そうした中、寄進の理由や経緯が分かる興味深い例があります。下松市鷲頭山(わしずやま)、降松(くだまつ)神社(※1)の狛犬です。
鷲頭山の山頂付近には降松神社上宮(じょうぐう)、中腹に中宮(ちゅうぐう)、麓に若宮(わかみや)があり、それらはかつて妙見(※2)などを祀(まつ)る妙見社の上宮・中宮・若宮でした。室町時代には、その妙見社を西国一の大名・大内(おおうち)氏があつく信仰。江戸時代には徳山藩が保護。明治時代を迎え、妙見社は降松神社となりました。
その若宮の拝殿前に、江戸時代に寄進された一対の狛犬があります。どことなくユーモラスな狛犬で、台座には「林市左衛門(はやし いちざえもん)(※3)」「寛政二庚戌(かのえいぬ)三月」の銘。そしてその寄進に関する文書(もんじょ)が山口県文書館にあります。
それは徳山藩の寺社奉行が、妙見社を司っていた鷲頭寺(じゅとうじ)(※4)に出した寛政2(1790)年3月24日付けの許可書です (※5)。「妙見社若宮の前へ山田村(※6)より狛犬一対、下松西市山代屋(山城屋)市左衛門より同一対、寄進したいとのこと。それを許可する」。これによれば、二対の狛犬の寄進が同時に藩から許可されたことが分かります。しかし、若宮拝殿前にあるのは山城屋からの一対のみ。山田村からのもう一対はどこにあるのでしょうか。

流行病に苦しんだ農民たちが畔頭・庄屋を経て、藩へ願い出て、許された!!

拝殿前の狛犬は前脚のもりもりとした巻き毛や、台座が「工」の字状であること(※7)に特徴があります。そして、その特徴にそっくりの狛犬が、拝殿前から石段や参道を下り、100メートル以上離れた石鳥居のそばにもあります。特に石鳥居に向かって右(西)はかつてのままの狛犬で、台座には「山田村 寛政二庚戌」などの銘(※8)。文書や狛犬の特徴、銘から、この狛犬こそ、拝殿前の狛犬と同時に寄進を許可された、もう一対のうちの一体だと分かります。
この二対の狛犬については他にも記録があることが分かりました。徳山藩の『御蔵本(おくらもと)日記(※9)』同年3月23日条に2通の文書が書き写されており、1通は鷲頭寺が藩の寺社奉行へ狛犬二対の寄進許可を願い出た3月13日付けの文書。もう1通は山田村の農民たちが畔頭(くろがしら)(※10)と庄屋へ、さらに畔頭と庄屋が添え書きして藩へ願い出た3月17日付けのもの。後者には次のように記されています。
「山田村で去る冬、流行病(はやりやまい)があり、妙見山へ石の狛犬一対を寄進して願掛したいので、なにとぞお許しください(後略)」(※11)
18世紀前半の事例ですが、玖珂郡の本郷村(※12)周辺では、赤痢の類いや腸チフス、疱瘡(ほうそう。天然痘)などの感染症に度々苦しめられており(※13)、寛政元(1789)年冬の山田村の流行病もそうしたものでは、と推測されます(※14)
石造狛犬の寄進は18世紀に入って大坂でブームとなったのを受けて、防長では18世紀半ばから本格化しました。当初は大坂で造られた狛犬を寄進。18世紀後半になると下関・秋穂・徳山・萩など地元の石工たちが造り始めました(※15)。妙見社の二対の狛犬はまさに18世紀後半で、徳山地方の石工の作では、と考えられます。邪から守護する狛犬本来の怖い顔ではありませんが、そのころならではの味のある表情といえます。
流行病に苦しんだ農民たちから願掛しようという声が生まれ、寺からも藩へ願い出て許可され、寄進された狛犬。さまざまな神社の境内に何気なくある古びた狛犬たちにも、先人たちの切々とした願いが込められているのだろうと、この狛犬たちは教えてくれます。
(左)花岡八幡宮参道にある寛政元(1789)年の狛犬(下松市)と降松神社若宮拝殿前の寛政2(1790)年の狛犬(右)の写真
(左)花岡八幡宮参道にある寛政元(1789)年の狛犬(下松市)と降松神社若宮拝殿前の寛政2(1790)年の狛犬(右)の写真

(左)花岡八幡宮参道にある寛政元(1789)年の狛犬(下松市)。台座は周防部に多い工字状。徳山地方の石工の作と考えられている。降松神社若宮拝殿前の寛政2(1790)年の狛犬(右)によく似ている。
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(左)花岡八幡宮参道にある寛政元(1789)年の狛犬(下松市)。台座は周防部に多い工字状。徳山地方の石工の作と考えられている。降松神社若宮拝殿前の寛政2(1790)年の狛犬(右)によく似ている。
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(左)防府天満宮表参道にある宝暦9(1759)年の大坂狛犬(防府市)と(右)遠石八幡宮にある安永6(1777)年の狛犬(周南市)の写真
(左)防府天満宮表参道にある宝暦9(1759)年の大坂狛犬(防府市)と(右)遠石八幡宮にある安永6(1777)年の狛犬(周南市)の写真

(左)防府天満宮表参道にある宝暦9(1759)年の大坂狛犬(防府市)。遠石八幡宮や花岡八幡宮、降松神社若宮の寛政年間の狛犬のルーツと考えられている。(右)遠石八幡宮にある安永6(1777)年の狛犬(周南市)
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(左)防府天満宮表参道にある宝暦9(1759)年の大坂狛犬(防府市)。遠石八幡宮や花岡八幡宮、降松神社若宮の寛政年間の狛犬のルーツと考えられている。(右)遠石八幡宮にある安永6(1777)年の狛犬(周南市)
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「徳山藩沙汰書」(山田村ほかより妙見社若宮江駒犬寄進願御免につき)(山口県文書館蔵 古畑家文書)の写真
「徳山藩沙汰書」(山田村ほかより妙見社若宮江駒犬寄進願御免につき)(山口県文書館蔵 古畑家文書)の写真

「徳山藩沙汰書」(山田村ほかより妙見社若宮江駒犬寄進願御免につき)(山口県文書館蔵 古畑家文書)。妙見社若宮への山田村と山代屋(山城屋)からの狛犬の寄進を、徳山藩寺社奉行の宍戸隼太(ししど はやた)が鷲頭寺に許可したもの
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「徳山藩沙汰書」(山田村ほかより妙見社若宮江駒犬寄進願御免につき)(山口県文書館蔵 古畑家文書)。妙見社若宮への山田村と山代屋(山城屋)からの狛犬の寄進を、徳山藩寺社奉行の宍戸隼太(ししど はやた)が鷲頭寺に許可したもの
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「絹本淡彩妙見社参詣図」(部分)(妙見宮鷲頭寺蔵)の写真
「絹本淡彩妙見社参詣図」(部分)(妙見宮鷲頭寺蔵)の写真

「絹本淡彩妙見社参詣図」(部分)(妙見宮鷲頭寺蔵)。文化5(1808)年の作。鷲頭山の妙見社を描いたもの。中央の鳥居そばに狛犬、左斜め上に鷲頭寺、その背後の山に若宮、山頂に上宮、中腹に中宮や二王門(仁王門)が描かれている
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「絹本淡彩妙見社参詣図」(部分)(妙見宮鷲頭寺蔵)。文化5(1808)年の作。鷲頭山の妙見社を描いたもの。中央の鳥居そばに狛犬、左斜め上に鷲頭寺、その背後の山に若宮、山頂に上宮、中腹に中宮や二王門(仁王門)が描かれている
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鷲頭山の麓にある降松神社若宮の写真
鷲頭山の麓にある降松神社若宮の写真

鷲頭山の麓にある降松神社若宮。かつての妙見社若宮。室町時代、大内氏は鷲頭山の妙見社をあつく信仰。江戸時代、徳山毛利氏も保護し、大坂の徳山藩邸に鷲頭山の妙見を勧請した
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鷲頭山の麓にある降松神社若宮。かつての妙見社若宮。室町時代、大内氏は鷲頭山の妙見社をあつく信仰。江戸時代、徳山毛利氏も保護し、大坂の徳山藩邸に鷲頭山の妙見を勧請した
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下松市中市にある妙見宮鷲頭寺
下松市中市にある妙見宮鷲頭寺

下松市中市にある妙見宮鷲頭寺。かつて鷲頭山の麓、若宮への石段の左にあり、妙見社の別当坊だった。明治12(1879)年、山陽本線南の現在地へ。寺院だが、神社の権現造りの建築様式が興味深い。写真手前の鳥居と小社はかつて近くにあった荒神社を移したもの
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下松市中市にある妙見宮鷲頭寺。かつて鷲頭山の麓、若宮への石段の左にあり、妙見社の別当坊だった。明治12(1879)年、山陽本線南の現在地へ。寺院だが、神社の権現造りの建築様式が興味深い。写真手前の鳥居と小社はかつて近くにあった荒神社を移したもの
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  1. 降松神社の祭神は、天御中主神(あめのみなかぬしのみこと)。本文※1へ戻る
  2. 北極星を神格化したもの。一般的には妙見菩薩。国土を護り、災いを取り除くとされる。本文※2へ戻る
  3. 江戸時代の西市(現在の下松市西市)を代表する商家・林家。屋号「山城屋」。西市は当時、萩藩領。幕末には、萩藩主・毛利敬親(もうり たかちか)が山城屋を訪ねている、本文※3へ戻る
  4. 中腹の仁王門(現在は随神門)周辺に戦国時代、鷲頭寺を含む七つの僧房があった。それらの僧房や上宮・中宮・若宮などを統括したのが、鷲頭寺。鷲頭寺は江戸時代に若宮の麓へ、明治12(1879)年には下松の中心部だった中市へ移転。本文※4へ戻る
  5. 「徳山藩沙汰書」(山田村ほかより妙見社若宮江駒犬寄進願御免につき)山口県文書館蔵 古畑家文書。本文※5へ戻る
  6. 現在の下松市山田。本文※6へ戻る
  7. 数段の石材からなる台座の中で、最も高さがある部分が飾り台。その上には狛犬が座る足台。この狛犬では、飾り台と足台の間に幅広の板状の石材があることが特徴的で、これは山口県東部に特有のもの。「工字状台座」とされる(『山口考古』32号の岩崎論文による)。あるいは天板付き飾り台。本文※7へ戻る
  8. 左の狛犬と台座、石鳥居は破損したため昭和の終わりごろに造り直されたもの。台座には「二月」とあるが、徳山藩への申請・許可は「三月」。本文※8へ戻る
  9. 徳山藩の政務を担当した部署「蔵本」の日誌。山口県文書館蔵。本文※9へ戻る
  10. 村の集落単位に置かれた、庄屋を補佐する役。本文※10へ戻る
  11. 「諸費用は自分たちの手持ちの金銭で用意する」とも記されている。本文※11へ戻る
  12. 現在の岩国市本郷町。 本文※12へ戻る
  13. 『日野氏録誌・廻浦日記』山口県史民俗部会報告書1による。本文※13へ戻る
  14. 『山口県災異誌』によれば、寛政元(1789)年の長州は大地震・風水害・干ばつなども起きている。本文※14へ戻る
  15. おもしろ山口学「幕末、京都の北野天満宮にも寄進された「萩型狛犬」(2020年1月24日)参照。本文※13へ戻る

参考文献

おすすめリンク