しかし義長の治世は長く続きませんでした。天文22(1553)年10月には、大内氏に従っていた津和野(現在の島根県津和野町)の吉見(よしみ)氏
(※10)に反旗を翻されます。それを受け、陶晴賢も義長も出陣。その津和野城攻めに苦戦していた最中の翌年5月、やはり大内氏に従っていた安芸国(現在の広島県西部)の武将・毛利元就(もうり もとなり)に離反され、広島湾頭の諸城を占領されます。
義長は津和野の吉見氏と急ぎ講和。陶晴賢は元就を討つため、弘治元(1555)年9月、安芸国厳島へ大内氏重臣・弘中(ひろなか)氏らと渡ります
(※11)。そのとき義長自身は山口におり、10月3日、厳島の戦いの結果が届かぬ中、弘中氏の妻を思い遣り、手紙を書きます。「心配で気が重いことでしょう。私の心中も同じです。そのうちに良い知らせがあるでしょう」…。しかしまさにその日、弘中氏は自刃し、晴賢もすでにこの世を去っていました
(※12)。
厳島の戦いを機に、毛利氏の周防国(現在の山口県東部)侵攻が刻々と進み、大内方は追い詰められていきます。義長は弘治3(1557)年3月、山口を離れ、勝山城(現在の下関市)へ。勝山城は防御に優れた山城で、義長らは毛利方を苦戦させます。しかしやがて落城寸前となり、ついに4月3日ごろ、義長は長福寺(現在の功山寺)で自刃。ここに大内氏は滅亡したのでした。
正式な大内氏当主だった義長を、当主としない見方が生じたのには、後の毛利氏の歴史観が影響しています。陶氏らによる大内義隆へのクーデターの際、実は毛利氏も陶晴賢らに同意していました
(※13)。ところがやがて毛利氏は大内義長・陶晴賢と断交し、安芸国で挙兵。毛利氏自らもその行為を直後には「現形(げんぎょう)」、つまり大内義長・陶晴賢への裏切りと記していました
(※14)。しかし江戸時代、毛利氏を藩主とする萩藩で歴史観が形作られていく中、毛利氏は、もともと陶晴賢に「弑逆(しぎゃく。しいぎゃく)の天誅を行おう
(※15)」と思っており、そのため「交りを断って義旗を揚げた
(※16)」と変わります。さらにはやがて、義長にも罪はあり、大内氏の系図に加えるのは誤りで、義長をもって大内氏滅亡ではないとする見方
(※17)や、偽主とする見方も生じました。
時を経て現在、義長は改めて正式な当主と捉えられるようになってきました。200年余りにわたって本州西端の山口を本拠に、西国一の力を誇った大内氏。最後の当主が自刃し、新たな時代が始まった4月が、今年ももうすぐやってきます。