都美姫の有職雛のもの、と考えられている雛道具は、雛段だけでなく、別の展示ケースにもずらりと並べられています。小さな道具箱や食器、楽器、化粧道具の剃刀(かみそり)、櫛(くし)…。その数は細かく数えると400点を超えるといいます。中には室内遊戯の雛道具もあり、「王将」「歩」などの名が爪よりも小さな駒に記された将棋用品一式。ゴマ粒を思わせるほど極小の碁石と、碁盤。一から六まで目がきちんと施されたわずか数ミリのさいころと、双六(すごろく)盤。ミニチュアの雛道具の精巧さに釘付けとなります。
この手の込んだ有職雛や雛道具の作者は、七沢屋仙助(ななさわや せんすけ)。江戸時代、精巧な細工で評判だった江戸・上野池之端仲町(現在の東京都台東区)の人形店でした。明治28(1895)年出版の『徳川太平記
(※2)』には、文政・天保のころとして「七澤屋といひて玩物の精巧(たくみ)なるを造り 諸大名の奥方へのみ売込しものありし」と記されています。七沢屋は雛人形の他、まるで芥子粒(けしつぶ)のように小さな「芥子人形」でも有名だった店
(※3)。江戸時代末期の記録には、七沢屋の芥子人形の「世帯道具」は「実に壺中(こちゅう)の天地
(※4)ともいふべし、其値は実に世帯をもつより貴しといふ
(※5)」とあります。しかし天保12(1841)年、幕府の倹約令(天保の改革)によって豪華な雛人形は禁じられ、七沢屋は罪に問われることを恐れ、木綿を売る店に転じたといいます
(※6)。
そんな七沢屋による豪華な有職雛の持ち主・都美姫とは、どんな姫だったのでしょう。都美姫はもともと、毛利家の生まれ
(※7)。後に夫となる敬親は、誕生時には藩主の座は遠く、敬親の父斉元(なりもと)は家督を受け伝える家系ではありませんでした。しかし10代藩主
(※8)が隠居し、敬親の父斉元が11代藩主に。その斉元が天保7(1836)年9月に死去し、10代藩主の子・斉広(なりとう)が12月に12代藩主となりますが、わずか20日ばかり後に死去。まだ23歳の若さでした。
その12代藩主斉広のただ一人の忘れ形見が、幼かった都美姫。将来その都美姫とめあわせるということで、敬親が翌年、斉広の養嗣子として19歳で13代藩主の座に就きます。都美姫は当時5歳。江戸の藩邸で生まれ、祖母に当たる10代藩主の正室・法鏡院(ほうきょういん)によって養育されました。法鏡院にとっては自身の血を引く孫娘ではなかったものの、若くして逝った12代藩主の唯一の遺児はどんなにか愛おしかったことでしょう。
七沢屋の豪華で精巧な有職雛や雛道具。遊びながら宮中のことを学んだ都美姫の幼い姿や、どうぞ無事育ってくれますようにと願った祖母らにも思いをはせさせてくれます。