「三田尻御茶屋の池泉回遊式庭園と花月楼」(防府市)。池泉回遊式庭園の右後方に見えるのが茶室「花月楼」の東面。この花月楼は江戸時代、周防国分寺(防府市)にあったもの。江戸時代に三田尻御茶屋にあった花月楼は現在、松陰神社(萩市)にある。池泉回遊式庭園は失われていたが、発掘調査の結果などに基づく復元整備が一昨年夏終了した
防府から萩へ、旅した茶室。殿さまゆかりの二つの「花月楼」
防府市の「三田尻御茶屋」と萩市の「松陰神社」に、「花月楼」という同じ名の江戸時代の茶室があります。
名が同じだけでなく、両者には同じ“殿さま”でつながる深い関係がありました。どんな関係なのかを紹介します。
防府市にある、江戸時代の萩藩主の公館「三田尻御茶屋
(※1)」。萩市にある、吉田松陰(よしだ しょういん)を祀(まつ)る「松陰神社」。そのどちらにも「花月楼(かげつろう)」という名の茶室があります。実は松陰神社の花月楼は、かつて三田尻御茶屋にあったもの。どういう経緯があるのでしょうか。
三田尻御茶屋に花月楼が設けられたのは安永5(1776)年、萩藩7代藩主・毛利重就(もうり しげたか)のときのことです。重就は茶事を好み、江戸千家の開祖・川上不白(かわかみ ふはく)
(※2)から献上された設計図に基づき、茶室を建築。不白は、表千家7世・如心斎(じょしんさい)が「茶事七事式(ちゃじしちじしき)
(※3)」を定めた際に力を尽くした人物で、その茶事七事式の一つ「花月」にちなみ、茶室の名は花月楼とされました。重就は天明2(1782)年に隠居。その後は三田尻御茶屋に住み、毎月「4」が付く日に花月楼へ客を招いて茶事を楽しみました。
重就は経済振興策などの藩政改革を行い、後に「中興の祖」と称えられた藩主です。一方で、三田尻御茶屋の改修に多額の費用をかけ、家臣から批判もありました。寛政元(1789)年に重就が亡くなると、三田尻御茶屋の一部は解体・移築。花月楼は、重就に寵愛された茶人・竹田休和(たけだ きゅうわ)がもらい受け、文化2(1805)年、萩・平安古(ひやこ)の休和の屋敷へ移されました。
保存に尽力した品川弥二郎と、もう一つの周防国分寺の花月楼
ところが明治時代、廃藩置県によって、竹田家は萩藩からの扶持(ふち)
(※4)を失い、当主は幼少のため家業を行えず、花月楼は荒廃。その花月楼を、幕末、松陰に学び、維新政府で要職を歴任するようになった品川弥ニ郎(しながわ やじろう)
(※5)が明治20(1887)年、萩・松本橋のたもとの旧宅へ移します。弥ニ郎自身、維新政府では産業振興に尽力し、江戸時代に藩の産業振興に努めた重就を敬慕していたことから、重就ゆかりの花月楼の保存・移築を思い立ったといいます
(※6)。
時を経て、松陰没後100年目を迎えた昭和34(1959)年、弥ニ郎旧宅内の花月楼は松陰神社境内へ移築されます。それが現在、松陰神社にある花月楼です。
では、今、防府の三田尻御茶屋にある花月楼とは…? 実はその花月楼は江戸時代、同じ防府の「周防国分寺」にあった茶室でした。当時の住職は重就と茶道を通じてじっこんで、茶壷(つぼ)や茶杓を贈り合う間柄でした
(※7)。天明6(1786)年、周防国分寺の境内に茶室が造られ、その名はやはり花月楼だったことが江戸時代の境内図から分かります
(※8)。
やがて明治時代、周防国分寺の花月楼は三田尻御茶屋へ移築されます。それは廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)による混乱で、周防国分寺の規模が大幅に縮小されたときのことといいます。
再び時を経て昭和57(1982)年、周防国分寺の発掘調査で、金堂の北方の地から近世の建物跡が発見されます。江戸時代や明治初期の境内図と照合の結果、建物跡は花月楼跡と判明。さらに平成10(1998)年、三田尻御茶屋の保存修理が行われ、その工事中に「明治二一年十月一日」と書かれた花月楼の棟札が発見され、周防国分寺からの移築は、萩の花月楼が弥二郎旧宅に移った翌年、明治21(1888)年だったことが確認されました。
主の死去や廃藩置県、廃仏毀釈…。さまざまな時代の風を浴びながらも萩と防府に残された、殿さまゆかりの二つの花月楼。どちらも現在も茶会に用いられ、花月楼を愛し、移転させてまで守ろうとした人々の思いは、二百年の時を越え、受け継がれています。
「三田尻御茶屋 花月楼(南面)」(防府市)。中に入ると、畳敷の廊下「入側(いりがわ)」が東と南の二辺を巡る「八畳ノ間」や、その上席に「上段ノ間(四畳)」などがある。上段ノ間は床の間・棚・出書院付き。八畳ノ間の廊下側の建具を外すと、畳敷の廊下とつながる大広間になるのが特徴
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「三田尻御茶屋 花月楼(南面と菊炭)」(防府市)。南面の突出した部分には、躙口(にじりぐち)から中に入る小間・相伴席・水屋などから成る小さな茶室がある。茶室の外、軒下には漆黒の菊炭が敷き詰められており、苔の緑や飛石などとの対比も相まって美しい
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「三田尻御茶屋 花月楼にある説明板の一部」(防府市)。松陰神社にある花月楼も、この間取りなどと非常によく似ているが、移転等を繰り返したことなどもあり、一部が異なる。花月楼は七事式の根本である花月之式を催すことができるよう設計されており、七事式は八畳が約束となっている
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「松陰神社の花月楼」(萩市)。かつて三田尻御茶屋にあった花月楼で、萩の竹田家、品川弥二郎旧邸を経て、現在の松陰神社境内へ。松下村塾の北西にある。花月楼は普段、このように外から観覧することができる
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「松陰神社の花月楼 畳敷の廊下」(萩市)。山口県指定有形文化財。現在の三田尻御茶屋の花月楼と同じく、畳敷の廊下が二辺を巡る「八畳ノ間」や、八畳ノ間から10センチメートルほど上げた「上段ノ間(四畳)などがある。畳敷の廊下の上は、杉丸太垂木(たるき)の化粧屋根裏となっている。外からの撮影
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「松陰神社の花月楼の額」(萩市)。品川弥二郎が明治20(1887)年冬に揮毫した額が、花月楼の畳敷の廊下に展示されている
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- 御茶屋は、藩主の参勤交代の休憩・宿泊などのために建てられた。おもしろ山口学「国指定史跡 萩往還関連遺跡『三田尻御茶屋の変遷』」参照。
- 如心斎の門人。毛利氏をはじめ多くの大名が入門した。
- 如心斎が弟の裏千家8世・又玄斎(ゆうげんさい)と相談するなどして制定した茶道の七つの式法。元禄期、茶の湯の人口が増えた一方で、元禄の世相や華美の風潮に影響され、わび茶の本来の精神から逸脱しかけたことから、真の茶道を確立しようと考え、まとめたもの。
- 主君から家臣に給与される米など。
- 農商務大輔、内務大臣などを歴任。農林関係を中心に産業振興に尽力。
- 幕末の藩主・毛利敬親(たかちか)が山口城(現在の山口県庁の地)に設けた茶室「露山堂」が、明治時代に移築後、老朽化。保存のため、敬親の墓所がある「香山公園」へ移転した際にも弥二郎は尽力。おもしろ山口学「激動の幕末期 長州の藩主 毛利敬親 第2回 志を育んだ幕末のリーダー」参照。また弥二郎は明治22(1889)年ごろ、萩城三の丸(堀内)の花江御殿にあった、敬親遺愛の茶室を、在萩有志と共に指月公園(萩城跡)に移転し、松陰の兄・杉民治(すぎ みんじ)が会長となって保存会を作った。現在の花江茶亭。
- 防府市教育委員会編『ふるさと散策』。
- 「国分寺荒図」『防長風土注進案』9 三田尻宰判 上。
平成8年から22年度にかけて建物の保存修理工事が行われ、三田尻御茶屋の大観楼棟は江戸時代、奥座敷棟は明治時代、玄関棟は大正時代の姿に復元されました。また、池泉回遊式庭園も江戸時代後期に作られたときの状態に復元され、令和元年度工事によって、池に水が流れるようになりました。
昨年は、吉田松陰の叔父・玉木文之進(たまき ぶんのしん)によって松下村塾が開設されて180年、松下村塾が国の史跡として指定されて100年の節目の年でした。松陰神社宝物殿 至誠館では、吉田松陰の遺墨など、松陰神社の貴重な宝物を展示しており、現在、常設展を開催中。なお、松陰が北条政子(ほうじょう まさこ)について詠んだ漢詩も現在展示中です。
参考文献
- 『国史大辞典』1979-1997
- 萩市史編纂委員会『萩市史』3 1987
- 萩市建設部文化財保護課『萩市の文化財』2008
- 防府市教育委員会編『史跡周防国分寺旧境内 保存管理整備基本計画』2013
- 防府市教育委員会編『史跡萩往還 三田尻御茶屋保存修理工事報告書』2011
- 防府市教育委員会編『ふるさと散策』2005
- 防府市教育委員会編『防府市文化財調査年報 Ⅷ 昭和57年度周防国府跡発掘調査概要』1986
- 山口県教育委員会編『山口県の近代和風建築 山口県近代和風建築総合調査報告書』2011
- 山口県文化財愛護協会編『山口県文化財』10 1980
- 山口県文書館編『防長風土注進案』9 三田尻宰判 上 1964 など