トップページ > 2022年12月23日 おもしろ山口学
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「山県有朋銅像」の写真

「山県有朋銅像」。かつて東京にあった騎馬像で、現在、萩市にある。昭和4(1929)年11月15日付の「朝日新聞」によれば、北村西望は、威厳そのものの有朋公の面影を出すことに随分苦労し、幾分やせ形の有朋公の骨格に調和させるため「軽快なすっきりしたいくらか動いている馬を創造」したという

数奇な巡り合わせを経て東京から萩へ。北村西望作「山県有朋銅像」

今年、令和4(2022)年は山県有朋没後100年。現在、萩市にある巨大な山県有朋の騎馬像は、かつて東京にありました。戦時中・戦後の銅像受難のときを“生き延び”ながらも転々とし、最終的には有朋の故郷・萩へ。今年移設30年を迎えた山県有朋銅像を紹介します。
萩市中央公園に、萩出身の山県有朋(やまがた ありとも)の巨大な騎馬像があります。高さ約4メートル。長崎市にある平和祈念像で知られる著名な彫刻家・北村西望(きたむら せいぼう)による騎馬像(※1)の傑作です。実はこの銅像、30年前まで東京にあったもの。なぜ今、萩にあるのか。それには、この銅像がたどった数奇な巡り合わせがありました。
西望は長崎県南島原市出身。森鷗外(もり おうがい)(※2)の依頼で作った寺内正毅(※3)騎馬像が評価され、陸軍省から山県有朋の騎馬像の制作を依頼されます。完成した銅像は昭和5(1930)年、東京の陸軍省構内(※4)に据えられました。
やがて第二次世界大戦が始まると日本は兵器用の材料不足に陥り、昭和18(1943)年ごろから全国各地の銅像の供出が進められます(※5)。それは銅像の“生みの親”である彫刻家たちにとって、あまりに悲痛なこと。西望は彫刻家・朝倉文夫(あさくら ふみお)(※6)らと銅像救出委員会を組織し、朝倉文夫は「銅像を鋳つぶし、兵器に変えることの愚を敢然と主張(※7)」したといいます。しかし戦時下で供出を免れた銅像は全国的にもごくわずか(※8)。その中の一つに有朋の騎馬像がありました。

戦後、GHQ占領下で“銅像追放”、鋳つぶすかどうかの対象に…

ところが戦後、再び“銅像受難”のときが訪れます。昭和21(1946)年、GHQ占領下で忠魂碑や銅像など軍国主義的なものは公共の場から“追放”となり、東京都では翌年、撤去するかどうかを審査(※9)。その審査を経て実際に鋳つぶされた銅像はあり、有朋の騎馬像も「鋳つぶすかどうかでもめ」ます(※10)。そのとき、この銅像について朝倉文夫が「将来文化財になるべき傑作であり、断じて残すべき」と強く主張したといい(※11)、結果、無事残されることに(※12)。それでもその場に残るのは目障りとされ(※13)、台座から降ろされ、上野公園の東京都美術館裏の空き地へ移され、直に地面に置かれます(※14)
しかしそのまま歳月は流れ、次第に放置されたような状態に。そうした中、昭和30(1955)年ごろからさまざまな人々が誘致を考え始め(※15)、やがて美東町(現在の美祢市)では山県有朋公銅像再建会が組織されます(※16)。美東町は幕末、萩藩の内戦時に奇兵隊などが保守派に勝利し、その後、倒幕へとつながっていった歴史の舞台。その内戦で奇兵隊を率いて活躍した人物こそ、有朋でした。同じころ防府市の民間団体でも誘致へ向けて動き始めており、さらには東京に残すべきという声も上がり、この一件は国会でも取り上げられることに(※17)。そのとき、放置された状態となってすでに十数年が経過していました。
西望もその状態には以前から心を痛めており、「平和祈念像」の制作を機にアトリエを設けていた「井の頭自然文化園(※18)」内へ移設することでようやく決着。昭和37(1962)年3月、西望のアトリエのすぐそばの、木立の中に設置されました(※19)
やがて昭和62(1987)年、西望が102歳で亡くなり、2年後、再び誘致運動が湧き起こります。木立の中に立つ騎馬像を見てさびしいと感じた萩市出身者の団体が、有朋のふるさと・萩への移設を市長に要望したのです(※20)。萩市は翌平成2(1990)年、所有者である国の関東財務局や、管理を委託されていた東京都に、移設を求める要望書を提出。市議会では平成4(1992)年3月に承認。重さ約5トンの巨大な銅像は東京から萩へと海上輸送され、6月8日、萩市中央公園で除幕式が挙行されました。
戦時中の供出の悲劇は免れたものの、GHQ占領下で追放の対象となり、“助命”されながらも人目をはばかるように十数年放置され、やがて“生みの親”のすぐそばへ、そして終の棲家へ。今年は最後の移設から30年。有朋の騎馬像は有朋のふるさとの広い空の下、静かにそこにあり続けています。
「西望と平和祈念像」(長崎県南島原市提供)の写真
「西望と平和祈念像」(長崎県南島原市提供)の写真

「西望と平和祈念像」(長崎県南島原市提供)。西望は長崎県出身。『百歳のかたつむり』には「むごい戦争を地上から無くし、恒久平和を願う意味で、平和を主題にした記念像を作ってみたいと前から考えていた」「一つは天を指さして原爆を示し、一つは横に伸ばし地の平和を示す」とある
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「西望と平和祈念像」(長崎県南島原市提供)。西望は長崎県出身。『百歳のかたつむり』には「むごい戦争を地上から無くし、恒久平和を願う意味で、平和を主題にした記念像を作ってみたいと前から考えていた」「一つは天を指さして原爆を示し、一つは横に伸ばし地の平和を示す」とある
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パネル「山県有朋銅像の原型と西望ら」(長崎県南島原市提供)の写真
パネル「山県有朋銅像の原型と西望ら」(長崎県南島原市提供)の写真

パネル「山県有朋銅像の原型と西望ら」(長崎県南島原市提供)。写真をよく見ると、原型には生々しいヘラの跡があり、膝の上に置かれた指の皴も分かる。手前に座った、向かって一番右が西望。騎馬像を制作した東京・砲兵工廠での撮影と思われる
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パネル「山県有朋銅像の原型と西望ら」(長崎県南島原市提供)。写真をよく見ると、原型には生々しいヘラの跡があり、膝の上に置かれた指の皴も分かる。手前に座った、向かって一番右が西望。騎馬像を制作した東京・砲兵工廠での撮影と思われる
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「井の頭自然文化園内設置風景」(部分)(井の頭自然文化園提供)の写真
「井の頭自然文化園内設置風景」(井の頭自然文化園提供)の写真

「井の頭自然文化園内設置風景」(井の頭自然文化園提供)。昭和20年代に東京都美術館の裏へ仮移転後は台座から降ろされたままだったが、昭和37(1962)年にここへ移転後、再び台上に据えられた。後ろに見えるのが西望のアトリエ(現在のアトリエ館)。アトリエの北東に設置された
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「井の頭自然文化園内設置風景」(部分)(井の頭自然文化園提供)。昭和20年代に東京都美術館の裏へ仮移転後は台座から降ろされたままだったが、昭和37(1962)年にここへ移転後、再び台上に据えられた。後ろに見えるのが西望のアトリエ(現在のアトリエ館)。アトリエの北東に設置された
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「制作写真の展示風景」(井の頭自然文化園提供)の写真
「制作写真の展示風景」(井の頭自然文化園提供)の写真

「制作写真の展示風景」(井の頭自然文化園提供)。有朋の騎馬像が萩へ移転後、令和3(2021)年に井の頭自然文化園彫刻館で写真パネル(有朋の騎馬像のひな型と、原型と、西望)などが展示されていたときの展示ビュー。手前の展示品は、同園内での台座にあったプレートと原型
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「制作写真の展示風景」(井の頭自然文化園提供)。有朋の騎馬像が萩へ移転後、令和3(2021)年に井の頭自然文化園彫刻館で写真パネル(有朋の騎馬像のひな型と、原型と、西望)などが展示されていたときの展示ビュー。手前の展示品は、同園内での台座にあったプレートと原型
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「山県有朋銅像」(萩市観光協会提供)の写真
「山県有朋銅像」(萩市観光協会提供)の写真

「山県有朋銅像」(萩市観光協会提供)。平成4(1992)年、井の頭自然文化園から萩へ。萩市中央公園に設置された。毅然としていながら柔和な表情にも見える有朋の容貌や、尻尾やたてがみも含めた躍動感のある馬の姿も見応えがある
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「山県有朋銅像」(萩市観光協会提供)。平成4(1992)年、井の頭自然文化園から萩へ。萩市中央公園に設置された。毅然としていながら柔和な表情にも見える有朋の容貌や、尻尾やたてがみも含めた躍動感のある馬の姿も見応えがある
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「山県有朋銅像がある萩市中央公園」の写真
「山県有朋銅像がある萩市中央公園」の写真

「山県有朋銅像がある萩市中央公園」。台座のプレートには「山県有朋公 昭和四年十二月作 昭和三十七年三月此地尓移転 東京都 北村西望」と刻まれている。公園には大芝生広場や図書館などがあり、西隣には山口県立萩美術館浦上記念館がある
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「山県有朋銅像がある萩市中央公園」。台座のプレートには「山県有朋公 昭和四年十二月作 昭和三十七年三月此地尓移転 東京都 北村西望」と刻まれている。公園には大芝生広場や図書館などがあり、西隣には山口県立萩美術館浦上記念館がある
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  1. 西望作の大きな騎馬像として、他に寺内正毅(てらうち まさたけ)騎馬像・児玉源太郎(こだま げんたろう)騎馬像があった。戦後も残ったのは有朋の騎馬像のみ。本文※1へ戻る
  2. 小説家、陸軍軍医。このころは帝室博物館総長兼図書頭。本文※2へ戻る
  3. 現在の山口市出身。幕末、萩藩の諸隊で活躍。維新後、陸軍大臣・陸軍大将などを経て、大正5(1916)年、内閣総理大臣となった。本文※3へ戻る
  4. 「朝日新聞」昭和5(1930)年11月2日付によれば構内新議院正門前に設置。本文※4へ戻る
  5. 山口市にあった6基の毛利家銅像も昭和19(1944)年2月に供出。おもしろ山口学「幻となった6基の『毛利家銅像』秘話-山口市亀山公園-」参照。本文※5へ戻る
  6. 明治・大正・昭和時代を通じて日本の彫刻界に多大な影響を与えた。文化勲章受章。宇部市の渡辺翁記念公園にある「渡辺祐策(わたなべ すけさく)翁像」の制作者。本文※6へ戻る
  7. 『百歳のかたつむり』による。本文※7へ戻る
  8. 供出を免れたのは主に武人・軍人像。本文※8へ戻る
  9. 平瀬礼太『銅像受難の近代』。本文※9へ戻る
  10. 「朝日新聞」昭和27(1952)年10月13日付。本文※10へ戻る
  11. 『百歳のかたつむり』による。この銅像と、旧参謀本部前にあった新海竹太郎(しんかい たけたろう)作の大山巌騎馬像の2像について。本文※11へ戻る
  12. 『銅像受難の近代』によれば、大村益次郎銅像も審査の対象になったが、日本最初期の銅像として残された。おもしろ山口学「“日本初の西洋式銅像”大村益次郎銅像」参照。本文※12へ戻る
  13. 『百歳のかたつむり』や『サンデー毎日』昭和35(1960)年6月5日号などによれば、この銅像の前に、米軍将校のチャペルができたという。木下直之『銅像時代 もうひとつの日本彫刻史』によれば、GHQとCIAは撤去を強く求め、妥協策として東京都美術館への移設が決まったという。本文※13へ戻る
  14. 『銅像時代 もうひとつの日本彫刻史』によれば、騎馬像は「あまりの大きさに搬入口を通らず、やむをえず美術館の裏の茂みの中に」となったという。大山巌騎馬像も共にそこへ移され、昭和39(1964)年に東京・九段へ移転。本文※14へ戻る
  15. 「朝日新聞」昭和27(1952)年10月13日付、「防長新聞」昭和30(1955)年8月20日付・昭和35(1960)年2月5日付・2月6日付、『週間読売』昭和35(1960)年2月21日号など。本文※15へ戻る
  16. 「朝日新聞」昭和35(1960)年2月5日付によれば、その2年前から美東町では移設を検討し始めたという。また、町議会でも検討された。本文※16へ戻る
  17. 『銅像受難の近代』。本文※17へ戻る
  18. 昭和28(1953)年に西望が園内にアトリエを設置し、平和祈念像を制作。5年後、西望から350点余りの作品などが寄贈され、彫刻園1号館が開設。本文※18へ戻る
  19. 「朝日新聞」昭和37(1962)年3月11日付。本文※19へ戻る
  20. 「朝日新聞」平成3(1991)年9月27日付。本文※20へ戻る

参考文献