ところが戦後、再び“銅像受難”のときが訪れます。昭和21(1946)年、GHQ占領下で忠魂碑や銅像など軍国主義的なものは公共の場から“追放”となり、東京都では翌年、撤去するかどうかを審査
(※9)。その審査を経て実際に鋳つぶされた銅像はあり、有朋の騎馬像も「鋳つぶすかどうかでもめ」ます
(※10)。そのとき、この銅像について朝倉文夫が「将来文化財になるべき傑作であり、断じて残すべき」と強く主張したといい
(※11)、結果、無事残されることに
(※12)。それでもその場に残るのは目障りとされ
(※13)、台座から降ろされ、上野公園の東京都美術館裏の空き地へ移され、直に地面に置かれます
(※14)。
しかしそのまま歳月は流れ、次第に放置されたような状態に。そうした中、昭和30(1955)年ごろからさまざまな人々が誘致を考え始め
(※15)、やがて美東町(現在の美祢市)では山県有朋公銅像再建会が組織されます
(※16)。美東町は幕末、萩藩の内戦時に奇兵隊などが保守派に勝利し、その後、倒幕へとつながっていった歴史の舞台。その内戦で奇兵隊を率いて活躍した人物こそ、有朋でした。同じころ防府市の民間団体でも誘致へ向けて動き始めており、さらには東京に残すべきという声も上がり、この一件は国会でも取り上げられることに
(※17)。そのとき、放置された状態となってすでに十数年が経過していました。
西望もその状態には以前から心を痛めており、「平和祈念像」の制作を機にアトリエを設けていた「井の頭自然文化園
(※18)」内へ移設することでようやく決着。昭和37(1962)年3月、西望のアトリエのすぐそばの、木立の中に設置されました
(※19)。
やがて昭和62(1987)年、西望が102歳で亡くなり、2年後、再び誘致運動が湧き起こります。木立の中に立つ騎馬像を見てさびしいと感じた萩市出身者の団体が、有朋のふるさと・萩への移設を市長に要望したのです
(※20)。萩市は翌平成2(1990)年、所有者である国の関東財務局や、管理を委託されていた東京都に、移設を求める要望書を提出。市議会では平成4(1992)年3月に承認。重さ約5トンの巨大な銅像は東京から萩へと海上輸送され、6月8日、萩市中央公園で除幕式が挙行されました。
戦時中の供出の悲劇は免れたものの、GHQ占領下で追放の対象となり、“助命”されながらも人目をはばかるように十数年放置され、やがて“生みの親”のすぐそばへ、そして終の棲家へ。今年は最後の移設から30年。有朋の騎馬像は有朋のふるさとの広い空の下、静かにそこにあり続けています。