(左)「十朋亭(じっぽうてい)」。山口市指定史跡。江戸時代後期、萬代(ばんだい)家の離れとして建てられたもの。山県有朋(やまがた ありとも)や高杉晋作(たかすぎ しんさく)、桂小五郎(かつら こごろう)、伊藤博文(いとう ひろぶみ)、井上馨(いのうえ かおる)らも出入りした。(右)「維新当時十朋亭居住者の写真より有朋の古写真」(山口市歴史民俗資料館蔵)
没後100年 山県有朋が十朋亭へ託した「凌雲気」
今年は山県有朋没後100年。山口市の十朋亭維新館では、企画展「十朋亭を愛した元勲・山県有朋」を12月19日(月曜日)まで開催しています。有朋と山口とのつながりを紹介します。
かつて山口の有力町人だった萬代家の地にある「十朋亭維新館」。江戸時代に造られた離れ「十朋亭」が今もあり、それは山県有朋(やまがた ありとも)が保存を依頼したことによるといいます。有朋と萬代家。どんな関係があるのでしょうか。
有朋は天保9(1838)年、萩で生まれました。安政5(1858)年、萩藩から派遣された京都で吉田松陰(よしだ しょういん)の門下生・久坂玄瑞(くさか げんずい)
(※1)らに出会い、影響を受けます。同年、松下村塾に入塾。前年、一つ年下の高杉晋作
(※2)、三つ年下の伊藤博文
(※3)も入塾していました。
文久3(1863)年5月、玄瑞らの尊王攘夷派(そんのうじょういは)
(※4)が関門海峡で攘夷戦を決行します
(※5)。しかし外国船の反撃で苦境に。藩から相談され、晋作によって結成されたのが「奇兵隊」でした
(※6)。有朋も入隊し、12月には軍監となり、隊を指揮し、多くの命を失いながら幕末・維新を戦い抜きます。
維新後、明治2(1869)年には渡欧して軍制を調査。2年後、維新政府で兵部省(ひょうぶしょう)の事実上の責任者、兵部大輔(たいふ)となり、やがて徴兵制を施行させるなど近代陸軍を創設します。伊藤博文が初代内閣総理大臣となった際には、有朋が内務大臣に。明治22(1889)年には有朋自らが内閣総理大臣となり、9年後にもその座に就き、有朋にとって松下村塾への入塾と奇兵隊での活躍が人生を切り開いたのでした。
若き志士らが集った「十朋亭」を思い、筆を執った「雲を凌ぐ志」
そんな有朋と萬代家との出会いは、幕末の文久3(1863)年、萩藩が本拠を萩から山口へ移したころと考えられます。萬代家は藩から御用宿を命じられ、離れの十朋亭には藩の要人や志士らが頻繁に出入り。その中に、有朋もいました。
当時の有朋の交友が分かる2通の手紙があります。1通は萩原鹿之助(はぎわら しかのすけ)が春山花太郎(はるやま はなたろう)に、馬関(現在の下関市)に外国船が到着次第、西洋沓(せいようぐつ)の購入を、と頼む急ぎの手紙。もう1通はなぜかその頼まれごとを、よく似た名前ですが花太郎とは別人の花山春太郎(はなやま はるたろう)が、馬関にいる村田蔵六(むらた ぞうろく)にさらに頼んだもの。「失敬千万で恐れ入りますが、ご配慮ください。代金は立て替えていただければいずれ」とあります。
実は萩原鹿之助とは、有朋の変名。花太郎は井上馨
(※7)、春太郎は伊藤博文の変名です。村田蔵六は、萩藩の軍制を改革し、維新後は初代兵部大輔となり、徴兵制の創出を目指した大村益次郎(おおむら ますじろう)
(※8)。西洋沓とは軍靴、坂本龍馬(さかもと りょうま)でおなじみのブーツでしょうか。時期は萩藩の内戦
(※9)が収束しつつあった慶応元(1865)年1月後半から2月初めごろと考えられ、やがて藩論が幕府との対決姿勢へ向かう中、2通の手紙のリレーからは時代の緊迫感も伝わってきます。
時を経て大正10(1921)年ごろ、有朋は萬代家から十朋亭に掲げる扁額の揮毫(きごう)を頼まれます。そのころには益次郎、博文、井上馨もすでに亡き人に。有朋自身は当時枢密院議長で “元老筆頭
(※10)”となりながらも失意を味わい、政治から距離を置き始めたころでした。そんな有朋が、亡き同志たちとの思い出の地のため、筆を執った言葉は「凌雲気」。雲を凌ぐ志といった意味で、後に続く人に託したい思いも込めたのかもしれません。有朋が亡くなったのは、その翌年のことでした。
維新の元勲の一人で軍人の印象も強い有朋。しかし歌人としての一面もあり、博文が暗殺されたとき、この歌を詠んでいます。「かたりあひて尽しゝ人は先たちぬ今より後の世をいかにせむ」。馨の死を知ったときには「語らむと訪ひしを君は先たちて残る老か身たのみなき世や」。萬代家には、それらの歌も収めた有朋の四つの歌集を養子の山県伊三郎(いさぶろう)がまとめた貴重な『椿山集(ちんざんしゅう)』も遺され、有朋の秘めた胸の内を伝えてくれます。
「昔の十朋亭外観写真」(十朋亭維新館蔵)。十朋亭が今もあるのは、有朋の依頼によるという。敷地内には萬代家主屋も残る他、展示施設「十朋亭維新館」がある。現在、企画展で展示中の晋作の手紙では、晋作は萬代家から3、4軒先の家に泊まっていることを松陰の兄に知らせている
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。
「山県有朋写真 於椿山荘(ちんざんそう)撮影」(部分)(山口県文書館蔵)。有朋は多趣味な人で、築庭も趣味とした。東京の「ホテル椿山荘東京」はかつての有朋の本邸 椿山荘で、庭は有朋が監修し、岩本勝五郎が作庭。京都・南禅寺近くの「無鄰菴(むりんあん)」(国指定名勝)は有朋の別荘で、庭は有朋の指示を受けながら小川治兵衛(おがわ じへえ)が作庭
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。
「山県有朋書 扁額『凌雲気』」(山口市歴史民俗資料館蔵 萬代家旧蔵)。大正10(1921)年ごろ、萬代家が十朋亭に掲げるため、有朋に揮毫を依頼したもの。このとき有朋は83歳。「含雪老人」とあり、含雪とは有朋の号の一つ。現在、十朋亭維新館の企画展で展示中
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。
「萬代利介宛 古口新吾書簡(大正10年4月22日)」(山口市歴史民俗資料館蔵 萬代家旧蔵)。扁額を受け取った萬代家の礼状に対する、有朋の執事からの手紙。「ご丁重なる謝状に添え、名産の白外郎(しろ ういろう)をお送りくださり、本日夕方受け取って(有朋に)披露しました。ご厚情、ありがたくお礼申し上げるようにとのことです」とある。現在、十朋亭維新館の企画展で展示中
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。
「春山花太郎宛 萩原鹿之助書簡 (慶応元(1865)年1月頃)20日」(山口市歴史民俗資料館蔵 大村益次郎関係資料)。萩原鹿之助(有朋の変名)が春山花太郎(井上馨の変名)に、馬関に外国船が到着次第、西洋沓の購入を、と依頼した手紙。1行目から2行目にかけて「西洋沓」とある。現在、十朋亭維新館の企画展で展示中
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。
「和歌集『椿山集』」(十朋亭維新館蔵 萬代家旧蔵)。有朋死去の翌年に編さんされたもの。中央に博文の死を悼む和歌。明治43(1910)年の作として、敬愛した晋作や、有朋と共に奇兵隊の軍監を務めた福田侠平(ふくだ きょうへい)をしのぶ和歌がある。現在、十朋亭維新館の企画展で展示中
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。
- 晋作と並ぶ松下村塾の双璧。元治元(1864)年「禁門の変」で戦死。おもしろ山口学「吉田松陰と塾生たちの松下村塾 第2回 唯一無二の玄瑞を失ってはならない」参照。
- 維新を迎える前に、慶応3(1867)年に病死。
- 明治18(1885)年に初代内閣総理大臣となり、4度その任を務めた。元老の一人。明治42(1909)年に暗殺された。
- 尊王は天皇を尊崇する思想。攘夷は他国を排撃する思想。
- おもしろ山口学「攘夷戦争と久坂玄瑞・光明寺党」参照。
- おもしろ山口学「高杉晋作-逸気俊才奔牛のごとき 第1回 座敷牢から四カ国連合艦隊と講和の大舞台へ」参照。
- 幕末、博文らと英国へ密留学した5人の萩藩士の一人。第一次伊藤内閣で外務大臣を務めて以降、大臣を歴任。元老の一人。大正4(1915)年に病死。
- 明治2(1869)年に襲撃され、その傷がもとで死去。おもしろ山口学「“日本初の西洋式銅像”大村益次郎銅像」参照。
- 「禁門の変」後、萩藩は朝敵とされて窮地に陥ると、藩内で武備恭順派と保守派が対立。保守派が政権を握った後、晋作らの改革派が決起し、有朋らの奇兵隊や諸隊が呼応。内戦へ発展した。
- 伊藤之雄『山県有朋 愚直な権力者の生涯』2016。なお、元老とは、明治時代中期から昭和10年代まで政局を主導した政界最長老の略。
青春時代の思い出が詰まった十朋亭との関わりに触れながら、有朋の人物像を紹介する企画展です。「凌雲気」の扁額や、多くの戦友を失った北越戦争の陣中で詠まれた歌「敵(あだ)守る砦の篝(かがり)影ふけて夏も身にしむ越(こし)の山風(やまかぜ)」の直筆の書なども展示されています。
期間 12月19日(月曜日)まで
場所 十朋亭維新館
参考文献
- 伊藤之雄『リーダーとしての山県有朋』(萩ものがたり vol.69) 2021
- 伊藤之雄『山県有朋 愚直な権力者の生涯』2016
- 岡義武『山県有朋 -明治日本の象徴-』1994
- 十朋亭維新館 没後100年記念企画展「十朋亭を愛した元勲 山県有朋」展示資料 2022
- 松下村塾開塾150年記念誌出版委員会『松下村塾開塾150年記念 吉田松陰と塾生たち』2008
- 山縣有朋『山縣公遺稿・こしのやまかぜ』2012 など