大正6(1917)年、現在のJR山口線が山口駅から延伸され、渓谷の阿東地域の入り口・御堂原(みどうばら)に近い篠目(しのめ)駅が開業します。それに合わせ、防長新聞に渓谷の紀行文が連載されて話題に。鉄道は翌年、三谷駅まで延伸されます。
渓谷の評価に決定的な影響を与えたのは大正9(1920)年、陸軍中将で男爵、貴族議員でもあった山根武亮(やまね たけすけ)
(※8)と、日本画家の重鎮・高島北海(たかしま ほっかい)
(※9)による探勝でした。二人は萩の藩校「明倫館」の同窓生。北海はかつて明治政府の工部省に勤めていたほか、日本人のみによる最初の広域地質図
(※10)「山口県地質分色図
(※11)」を作成するなど地質学や森林植物学の専門家でもありました。フランス留学中には、後のアールヌーヴォーの担い手エミール・ガレに影響を与えたことでも有名です。
二人は“長門耶馬渓”と呼ばれるようになっていた渓谷を、生雲渓(せいうんけい)と一度は名付けますが、探勝後改めて「長門峡」と命名
(※12)。また、北海は「凝灰岩の耶馬渓に比べて火成岩の生雲渓(長門峡)は雄大で武人的」「峡谷の美景としては日本一」
(※13)と絶賛します。長門峡を描いた作品も制作し、160点を販売。売り上げは地元で設立された長門峡保勝会に寄付され、探勝路の建設資金に用いられました。さらに北海は長門峡についての学術的な価値を公表
(※14)。その後、地質学の権威が相次いで現地を訪れ、その多くに北海が同行しました。
大正10(1921)年10月・11月には紅葉狩りに合わせ、長門峡入り口近くに仮乗降駅を設置
(※15)。景勝地としての名声が高まる中、長門峡は2年後、国の名勝として指定されます。そしてその後も北海は、県内の名勝や天然記念物の国指定に関わっていきました。
美や価値を見出す人、伝える人、親しめるものにする人がいて、人々が動き、地域の宝は輝いていく。100年前の歩みを振り返ると、多くの先人の思いや行動によって私たちが今、長門峡を楽しめることに気付かされます。