(左)「築山跡史跡公園」(山口市教育委員会提供)。(右)「山口町村図」(部分)(山口県文書館蔵)。幕末の文久3(1863)年ごろ、萩藩が作製した絵図。築山跡が「ツキ山」と記され、築地跡の石垣なども描かれている。築山跡には江戸時代の安政3(1856)年、落雷で焼失した月見松があったといい、その跡も描かれている
「行程記」(部分)(山口県文書館蔵)。行程記は明和元(1764)年ごろ、萩藩が作製した街道絵図。築山跡は「築山」として、赤い引き出し線の先には「世俗の説」と「教弘を築山殿とも言うとのこと。よって、ここを築山と言うとのこと」とある。二方向(西と北)に築地も描かれ「石垣高さ一丈」とある
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「行程記」(部分)(山口県文書館蔵)。行程記は明和元(1764)年ごろ、萩藩が作製した街道絵図。築山跡は「築山」として、赤い引き出し線の先には「世俗の説」と「教弘を築山殿とも言うとのこと。よって、ここを築山と言うとのこと」とある。二方向(西と北)に築地も描かれ「石垣高さ一丈」とある
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「山口町村図」(部分)(山口県文書館蔵)。文久3(1863)年ごろ、萩藩が作製した絵図。現在は築山跡にある築山神社(元は宝現霊社)は幕末、多賀社東の後河原片岡(山口県警察体育館 旧武徳殿辺り)にあったことがこの絵図からも分かる。また八坂神社が、かつては一時、五重塔近くにあったことも分かる。山口屋形は現在の山口県庁の地
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「山口町村図」(部分)(山口県文書館蔵)。文久3(1863)年ごろ、萩藩が作製した絵図。現在は築山跡にある築山神社(元は宝現霊社)は幕末、多賀社東の後河原片岡(山口県警察体育館 旧武徳殿辺り)にあったことがこの絵図からも分かる。また八坂神社が、かつては一時、五重塔近くにあったことも分かる。山口屋形は現在の山口県庁の地
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「築地跡」(山口市教育委員会提供)。築山跡の北西隅にかつての築地(土塁)が現存。「大内氏掟書」には築地の上で祇園会の見物を禁じることが記されている。また萩藩が幕末、山口へ本拠を移して居城(現在の山口県庁の地)を築いた際、その石垣が一部転用されたという。さらに築地跡の上の全長4メートルの石塀は、江戸時代の『防長風土注進案』によれば「築山大明神の旧跡」とされる
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「築地跡」(山口市教育委員会提供)。築山跡の北西隅にかつての築地(土塁)が現存。「大内氏掟書」には築地の上で祇園会の見物を禁じることが記されている。また萩藩が幕末、山口へ本拠を移して居城(現在の山口県庁の地)を築いた際、その石垣が一部転用されたという。さらに築地跡の上の全長4メートルの石塀は、江戸時代の『防長風土注進案』によれば「築山大明神の旧跡」とされる
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「八坂神社」(山口市教育委員会提供)。築山跡にある神社の一つ。大内弘世が京都から勧請したと伝わる。当初は竪小路にあったとされ、瑠璃光寺五重塔近くの水の上、高嶺太神宮(現在の山口大神宮)のそばへと移り、元治元(1864)年に築山跡へ。本殿は永正17(1520)年、大内義興が建てたもので国の重要文化財
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「八坂神社」(山口市教育委員会提供)。築山跡にある神社の一つ。大内弘世が京都から勧請したと伝わる。当初は竪小路にあったとされ、瑠璃光寺五重塔近くの水の上、高嶺太神宮(現在の山口大神宮)のそばへと移り、元治元(1864)年に築山跡へ。本殿は永正17(1520)年、大内義興が建てたもので国の重要文化財
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築山跡史跡公園が10月10日(月曜日・祝日)に開園することを記念し、大内氏ゆかりの史跡や文化財などが多く残る「大内文化ゾーン」でさまざまな関連イベントなどが行われます。
開催期間:12月まで
場所:市内各地(大内文化ゾーン)