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(左)「築山跡史跡公園」(山口市教育委員会提供)。(右)「山口町村図」(部分)(山口県文書館蔵)の写真

(左)「築山跡史跡公園」(山口市教育委員会提供)。(右)「山口町村図」(部分)(山口県文書館蔵)。幕末の文久3(1863)年ごろ、萩藩が作製した絵図。築山跡が「ツキ山」と記され、築地跡の石垣なども描かれている。築山跡には江戸時代の安政3(1856)年、落雷で焼失した月見松があったといい、その跡も描かれている

見えてきた!! 謎多き大内氏遺跡「築山跡」

山口市にある国の史跡「大内氏遺跡」の一つ「築山跡」。その一角が長年の発掘調査を終え、今年10月、「築山跡史跡公園」として開園します。発掘調査などから見えてきた、従来説と異なる築山跡について紹介します。
室町時代、西国一の栄華を誇った大名・大内(おおうち)氏。「大内氏遺跡」として昭和34(1959)年に国の史跡に指定された四つの遺跡(※1)の中に、山口市大殿大路にある「館跡(※2)」や、少し離れて北に位置する「築山(つきやま)跡」があります。そのうち築山跡は現在、八坂神社や築山神社など(※3)がある地。築山跡は従来、後の江戸時代の記録など(※4)から、大内教弘(のりひろ)が築いた、雄大な庭園があった“別邸”の地とされてきました。しかし発掘調査(※5)などを通して、従来説とは異なることが近年見えてきました。
発掘調査の結果、築山跡は五つの段階に分かれて変遷していることが分かりました。中でも注目されるのが、第2段階以降です(※6)。第2段階は15世紀後半から16世紀初頭、当主が大内教弘・政弘(まさひろ)父子のころに当たります。「堀」が設けられて屋敷地が初めて明確となり、その内部で掘立柱(ほったてばしら)建物跡を2棟確認。第3段階も同じ15世紀後半から16世紀初頭ですが、堀が埋め戻される大きな変化があり、第2段階から第3段階への変化はごく短期間のうちに生じたと考えられています。第4段階は16世紀前半から中頃で、全域は盛り土で整地。第5段階は16世紀後半の大内氏滅亡後で、土地の利用は途絶します。
このように教弘・政弘父子のころ、堀が設けられて屋敷地が明確となるのに、短期間で堀は埋め戻されていた。一体それは何を意味するのでしょうか。

築山跡は別邸跡ではなく、隠居した教弘が短期間居館とした地だった!!

教弘は、幕府が明へ派遣する「遣明船」の経営に、大内氏として初めて参入を果たした人物です。画僧・雪舟(せっしゅう)は教弘のときに京都から山口へ来て、大内氏が経営した遣明船で水墨画の本場・明へ。それほど力があった教弘ですが、守護職を子の亀童丸(きどうまる)(後の政弘)に譲って一時隠居し、寛正4(1463)年ごろ復帰していたことが、室町時代の記録の研究から分かってきました(※7)。隠居した確かな理由は不明ですが、幕府との関係が悪化したためでは、と考えられています。また、教弘は寛正6(1465)年に死去後、子の政弘によって神として祀(まつ)られ、後に天皇から「築山大明神」の神号を与えられています。
そうした室町時代の記録の研究や発掘調査を照らし合わせ、近年、次のように考えられるようになりました。築山跡とは、大内氏の別邸が大内氏滅亡まであり続けた地ではなく、教弘が築いて“ごく短期間”、つまり“隠居期間中に居館”とし、その死後“神として祀られた地”といえる、と(※8)。また、その土地は江戸初期の寛文6(1666)年、萩藩主によって興隆寺(※9)境内の山王社(※10)に寄進(※11)されていることから、その寄進をもって教弘を祀る場としての役割は終えた、と考えられるようになりました。
では、築山跡に現在ある主要な二つの神社は、どういう経緯でそこにあるのでしょう。そのうち、八坂神社は、かつて鴻ノ峰の麓にあり、幕末、築山跡へ移ってきたもの(※12)。もう一つの築山神社については、かつて教弘が「築山大明神」として祀られた時期があったことから、教弘を祀る神社だと思いがちです。しかし、築山神社の主祭神は教弘ではなく、実は、教弘のひ孫の大内義隆(よしたか)(※13)。築山神社は当初、別の地にあった「宝現霊社」で、移転を重ね、明治初期に築山跡へ移ってきたものです(※14)
力を誇った大名も、神として祀られる場も移ろっていく。築山跡はそのことを改めて教えてくれるとともに、教弘が謎めいた隠居をした大内氏の時代へといざなってくれます。
「行程記」(部分)(山口県文書館蔵)の写真
「行程記」(部分)(山口県文書館蔵)の写真

「行程記」(部分)(山口県文書館蔵)。行程記は明和元(1764)年ごろ、萩藩が作製した街道絵図。築山跡は「築山」として、赤い引き出し線の先には「世俗の説」と「教弘を築山殿とも言うとのこと。よって、ここを築山と言うとのこと」とある。二方向(西と北)に築地も描かれ「石垣高さ一丈」とある
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「行程記」(部分)(山口県文書館蔵)。行程記は明和元(1764)年ごろ、萩藩が作製した街道絵図。築山跡は「築山」として、赤い引き出し線の先には「世俗の説」と「教弘を築山殿とも言うとのこと。よって、ここを築山と言うとのこと」とある。二方向(西と北)に築地も描かれ「石垣高さ一丈」とある
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「山口町村図」(部分)(山口県文書館蔵)の写真
「山口町村図」(部分)(山口県文書館蔵)の写真

「山口町村図」(部分)(山口県文書館蔵)。文久3(1863)年ごろ、萩藩が作製した絵図。現在は築山跡にある築山神社(元は宝現霊社)は幕末、多賀社東の後河原片岡(山口県警察体育館 旧武徳殿辺り)にあったことがこの絵図からも分かる。また八坂神社が、かつては一時、五重塔近くにあったことも分かる。山口屋形は現在の山口県庁の地
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「山口町村図」(部分)(山口県文書館蔵)。文久3(1863)年ごろ、萩藩が作製した絵図。現在は築山跡にある築山神社(元は宝現霊社)は幕末、多賀社東の後河原片岡(山口県警察体育館 旧武徳殿辺り)にあったことがこの絵図からも分かる。また八坂神社が、かつては一時、五重塔近くにあったことも分かる。山口屋形は現在の山口県庁の地
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「築地跡」(山口市教育委員会提供)の写真
「築地跡」(山口市教育委員会提供)の写真

「築地跡」(山口市教育委員会提供)。築山跡の北西隅にかつての築地(土塁)が現存。「大内氏掟書」には築地の上で祇園会の見物を禁じることが記されている。また萩藩が幕末、山口へ本拠を移して居城(現在の山口県庁の地)を築いた際、その石垣が一部転用されたという。さらに築地跡の上の全長4メートルの石塀は、江戸時代の『防長風土注進案』によれば「築山大明神の旧跡」とされる
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「築地跡」(山口市教育委員会提供)。築山跡の北西隅にかつての築地(土塁)が現存。「大内氏掟書」には築地の上で祇園会の見物を禁じることが記されている。また萩藩が幕末、山口へ本拠を移して居城(現在の山口県庁の地)を築いた際、その石垣が一部転用されたという。さらに築地跡の上の全長4メートルの石塀は、江戸時代の『防長風土注進案』によれば「築山大明神の旧跡」とされる
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「築山神社」(山口市教育委員会提供)の写真
「築山神社」(山口市教育委員会提供)の写真

「築山神社」(山口市教育委員会提供)。築山跡にある神社の一つ。主祭神は大内義隆。元の名は「宝現霊社」で別の地にあったが、移転を繰り返し、明治初期に築山跡へ。現在の社殿は、その明治初期の移転の際、興隆寺の東照宮社殿を譲り受けたもの
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「築山神社」(山口市教育委員会提供)。築山跡にある神社の一つ。主祭神は大内義隆。元の名は「宝現霊社」で別の地にあったが、移転を繰り返し、明治初期に築山跡へ。現在の社殿は、その明治初期の移転の際、興隆寺の東照宮社殿を譲り受けたもの
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「八坂神社」(山口市教育委員会提供)の写真
「八坂神社」(山口市教育委員会提供)の写真

「八坂神社」(山口市教育委員会提供)。築山跡にある神社の一つ。大内弘世が京都から勧請したと伝わる。当初は竪小路にあったとされ、瑠璃光寺五重塔近くの水の上、高嶺太神宮(現在の山口大神宮)のそばへと移り、元治元(1864)年に築山跡へ。本殿は永正17(1520)年、大内義興が建てたもので国の重要文化財
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「八坂神社」(山口市教育委員会提供)。築山跡にある神社の一つ。大内弘世が京都から勧請したと伝わる。当初は竪小路にあったとされ、瑠璃光寺五重塔近くの水の上、高嶺太神宮(現在の山口大神宮)のそばへと移り、元治元(1864)年に築山跡へ。本殿は永正17(1520)年、大内義興が建てたもので国の重要文化財
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「築山跡史跡公園」(山口市教育委員会提供)の写真
「築山跡史跡公園」(山口市教育委員会提供)の写真

「築山跡史跡公園」(山口市教育委員会提供)。長年の発掘調査や整備を終え、今年10月10日(月曜日・祝日)に開園
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「築山跡史跡公園」(山口市教育委員会提供)。長年の発掘調査や整備を終え、今年10月10日(月曜日・祝日)に開園
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  1. 館跡・築山跡・高嶺城跡・凌雲寺跡。本文※1へ戻る
  2. 現在の龍福寺の地。おもしろ山口学「大内氏館と庭園(前編)」「大内氏館と庭園(後編)本文※1へ戻る参照。
  3. 料亭「祇園菜香亭」(現在は山口市菜香亭として近くの地へ移転)があった地なども含む。本文※1へ戻る
  4. 『防長風土注進案』や『大内家古実類書』など。本文※1へ戻る
  5. 昭和50年代以降、平成26(2014)年度までに15次にわたる調査を実施。その後、史跡整備が行われ、今年10月、「築山跡史跡公園」として開園。 本文※1へ戻る
  6. 第1段階は、14世紀末から15世紀前半で、土地は活発な利用がない段階。本文※1へ戻る
  7. 川岡勉「第3章 大内氏と周防・長門」『山口県史 通史編 中世』2012など。本文※1へ戻る
  8. 発掘調査で池泉庭園の跡は見つかっていない。本文※1へ戻る
  9. 山口市大内御堀にあり、中世には大内氏の氏寺としてあつく信仰され、谷全体に多くの坊舎があった。本文※1へ戻る
  10. 山王社は日吉(ひえ)山王権現を祀る神社。本文※10へ戻る
  11. 神社や寺院に寄付すること。本文※11へ戻る
  12. 南北朝時代、大内弘世(ひろよ)が京都から勧請したと伝わる。当初は竪小路にあったとされ、水の上、高嶺太神宮(現在の山口大神宮)のそばへと移り、元治元(1864)年に現在地へ。本文※12へ戻る
  13. 歴代当主の中で最も栄華を誇った。本文※13へ戻る
  14. 移転の経緯には諸説ある。一説として、龍福寺境内に義隆を祀る社はあったが、慶長年間に多賀神社境内へ移り、再び龍福寺境内、後河原片岡へと移り、明治初期に現在地で築山神社と改称(『大内氏館跡12』2011,『大内氏遺跡調査資料』1960など)。別の説として、多賀神社境内に創建され、龍福寺境内、後河原片岡、現在地へ(『防長風土注進案』第13巻 1964など)。なお、龍福寺境内にも現在、宝現霊社がある。また、現在の雲谷庵(明治時代の再建)には、かつての宝現霊社拝殿の柱が使われている。おもしろ山口学「雪舟のアトリエ『雲谷庵』と、庵を甦らせた近藤清石」参照。 本文※14へ戻る

ぐるり! 大内文化ゾーン 築山跡史跡公園オープン記念事業

築山跡史跡公園が10月10日(月曜日・祝日)に開園することを記念し、大内氏ゆかりの史跡や文化財などが多く残る「大内文化ゾーン」でさまざまな関連イベントなどが行われます。
開催期間:12月まで
場所:市内各地(大内文化ゾーン)

参考文献