岩国領主・吉川(きっかわ)氏の居館は江戸時代初めの慶長8(1603)年ごろ、横山の山麓に完成しました。居館は当初「御土居(おどい)
(※1)」と呼ばれ、元禄11(1698)年に「御館(おたて)」、明治元(1868)年には吉川氏が悲願だった岩国藩主として認められたことから「御城(おしろ)」と改称されました。
現在、そこは吉香(きっこう)神社の境内地
(※2)で往時の建物はありません。かつてどんな居館があったのか。それがつぶさに分かる歴史資料として「御館平面図」や「元朝(がんちょう)登城之図」があります。
御館平面図は江戸時代の作で、それによれば、居館の三方を堀が巡り、南東面に土橋
(※3)があることは昔も今も変わりませんが、土橋を渡った先で大きく異なることが分かります。そこは現在直進できますが、かつては少し進むと突き当たり、右へ折れると櫓門(やぐらもん)
(※4)がそびえていました。いわば内枡形虎口(うちますがたこぐち)
(※5)で、御本門
(※6)である櫓門をくぐり、石畳を進むと玄関へと至りました。また、堀に面して石垣の上に築かれた白壁が敷地の三方を巡り、その東北の隅・南の隅・西の隅近くに櫓が築かれていました。
居館の内部は「表御殿」「御納戸」「裏御殿」の主に三つの部分で構成されていました。表御殿の部分は、公の儀式や政務を行う正殿。居館の東半分を占め、玄関のほか、領主の吉川氏が他藩などからの使者や家臣と対面する御広間や御書院、御用所
(※7)などがありました。御納戸の部分は、領主の日常生活の場。表御殿の奥に位置し、領主の御休息所・御小姓番所などがありました。裏御殿の部分は、領主の家族の住まい。山沿いに広がっていました。
在りし日の “御城”や旧藩士らへの思いまで伝える「元朝登城之図」
そうした居館の様子を分かりやすく伝えてくれるのが元朝登城之図、家臣らの元旦の“登城”風景を描いた絵図です。そこには御本門から登城する家臣。玄関前を通り過ぎ、番所脇の門をくぐって御用所へ向かう家臣。北御門
(※8)から登城する家臣。玄関を入った先の部屋で控えている家臣の姿もあります。表御殿や御納戸は主に檜皮ぶき屋根で、屋根の上には天水(雨水)受けの水槽。裏御殿は瓦ぶき屋根。風格ある居館だったことが分かり、敷地の南隅には二階建ての櫓、西には三階建ての櫓が描かれています。
ところが御館平面図と照らし合わせると、南隅の櫓には「御三階」、西の櫓には「御二階」とあり、元朝登城之図と食い違っています。元朝登城之図は、実は明治16(1883)年の作。その12年前の明治4(1871)年7月に岩国藩は岩国県、11月には山口県に統合され、その後、御城(居館)の地は競売処分となっていました。つまり、絵が描かれたとき、すでに御城はなく、記憶違いが生じたのかもしれません。
それでも現地を今、元朝登城之図や御館平面図を頼りに歩いてみると、それらに記されている通りの、かつての痕跡を見つけることができ、心が躍ります。例えば、堀と石垣の間に設けられた「犬走り
(※9)」。東の隅には御館平面図に記された「畳矢倉(櫓)」の石垣が今も残り、その近くには井戸の跡らしきものもあることなど…。
現在、御本門跡近くには、元朝登城之図を掲げた大きな説明板があります。元朝登城之図の作者は、岸雪江(きし せっこう)
(※10)。元岩国藩士で、かつて絵図方測量を学び、細密に写すことに長け、吉川氏の江戸邸勤めの際には写生画なども学んだ人物でした。
記憶違いがあったとしても、多くの人物まで緻密に描き込んだ絵からは、失われた“御城”や旧藩士らを懐かしむ思いまで伝わってきて、私たちの脳裏に往時の風景をいきいきと浮かび上がらせてくれます。