関ヶ原の戦いの後、吉川広家(きっかわ ひろいえ)が横山の山上に築いた「岩国城」。江戸時代初期に破却され、現在は昭和37(1962)年に再建された模擬天守がそびえるのみです。しかし遺構は豊かにあり、その縄張り(城の基本設計)などからは吉川氏のあまり知られざる歴史が見えてきます。
かつて吉川氏は安芸国(現在の広島県西部)の山間部
(※1)を本拠とし、安土桃山時代には石垣の築造に特徴的な土木技術
(※2)を有していました。やがて広家は当時広まりつつあった新しい土木技術や、枡形虎口(ますがたこぐち)
(※3)や総石垣
(※4)といった新しい城郭の構造を取り入れるようになります。秀吉の命で移った出雲国(現在の島根県東部)では、そうした構造を取り入れた大規模な城づくりに着手
(※5)。江戸時代に入ってからも慶長11(1606)年の江戸城改修で、その総責任者・藤堂高虎(とうどう たかとら)
(※6)から本丸の石垣工事の一部を任されたほど、吉川氏の技術力は高く評価されていました
(※7)。
破却から250年。ひそかに守り続け、再び軍事拠点に?!
そんな広家が江戸時代、岩国を本拠とし、城地として選定したのが、山陽道に近く、錦川の水運も生かせる横山の地でした。広家自らが岩国城の縄張りを決定。慶長8(1603)年から城づくりに着手します。広家から工事担当の家臣への手紙には「天守は北東から南西に続く山の尾根方向に建てること」といった細やかな指示が記され、広家は領主でありながら、技術者としての顔も持っていたことが分かります。
その岩国城の縄張りは、本丸・二ノ丸・北ノ丸・水ノ手
(※8)の曲輪(くるわ)群の主に4区画から成っていました。本丸には四重六階の天守
(※9)がそびえ、櫓門(やぐらもん)
(※10)や三階建ての櫓、枡形虎口など
(※11)を巡らせて防御。二ノ丸には出丸
(※12)を張り出し、そこに枡形虎口を配置。北ノ丸には二つの虎口を設け、そのうち一つは敵を挟み撃ちできるよう、二ノ丸の虎口と向き合う形で配置。また、関ケ原の戦い後のまだ不安定な情勢下で築かれた岩国城は、本丸のすぐそばに大規模な空堀(からぼり)
(※13)を築くなど、軍事拠点の色合いが濃い城でした
(※14)。
やがて岩国城は幕府の一国一城令により、慶長13(1608)年の工事完了からわずか7年で破却へ。ただしその時点では、建造物の破壊のみでした。しかし島原の乱
(※15)後の寛永15(1638)年、幕府から石垣についても破却を命じられます。広家はそれに応じますが、実は壊されなかった石垣が各所に残されました。そのことから広家が破却に消極的で、最低限の破壊に留めたことがうかがえます。
破却から約250年後の幕末、その地に再び動きが生じます。それは長州軍と幕府方との「幕長戦争」開戦の前月である、慶応2(1866)年5月のこと。幕末の領主・吉川経幹(つねまさ)は「御城山」の上に陣屋
(※16)を築造するよう家臣に命じます。つまり関ケ原の戦い後、広家が有事に備えて築き、破却後もひそかに守り続けた軍事拠点は、時を経て実際にその役割を担うことになったのです
(※17)。
平成6(1994)年、雑木に覆われた下に巨石などが小山のようになっていた、天守台の発掘調査が行われました。その結果、天守台の石垣は面によって異なる石工集団が担当したこと、近世城郭の特徴である石垣の反りが若干見られることなどが分かりました。
失われた岩国城からは、吉川氏が誇った技術力の変遷と、歴史に翻弄された吉川氏が持ち続けた危機意識が伝わってきます。