御土居は元禄11(1698)年に御館(おたて)と改称され、その御館があったのは絵図で「御城跡」と記された地でした。そこは現在、明治18(1885)年に白山比咩(しらやまひめ)神社境内から移された吉香神社
(※6)の広大な境内地に当たります。御館は三方を「ホリ(堀)」で囲まれ、その堀は現在も残ります。御館の大手(正面)は南東面。絵図では、大手から出て堀を渡るところに土橋(どばし)
(※7)が描かれ、突き当りに「大腰掛」、隣に「御蔵元」とあります。御蔵元とは、行政一般を担当した役所。現在は岩国徴古館
(※8)がある地です。絵図で御蔵元の角を左折したところには「昌明御殿(昌明館)」。7代領主の隠居所として寛政5(1793)年に造られたもので、現在は吉川史料館
(※9)があり、昌明御殿に付属していた長屋と門が現存します。
土橋へ戻り、御蔵元の隣には「御厩(おうまや)
(※10)」。その前の「ミチ(道)」を堀に沿って進むと「御作事(おさくじ)
(※11)」とあります。その隣の「御屋形(おやかた)」は仙鳥館ともいい、元禄11(1698)年に5代領主の幼少期の住まいとして建てられたもの。後に吉川氏の子女の養育に利用され、弘化3(1846)年に造られた建物が現存します。御作事の裏には「養老館」。養老館は幕末の領主・吉川経幹(つねまさ)が弘化4(1847)年に設けた教育施設(藩校)で、これにより、絵図の作製は幕末以降だと分かります。
また江戸時代、一般に大名は1万石以上とされました。しかし吉川氏は6万石を領有していながら、関ケ原の戦い後の徳川家康(とくがわ いえやす)への不信などが遠因となり、幕府から大名、藩主として認められていませんでした
(※12)。城主格
(※13)、つまり悲願の大名、岩国藩主としてようやく認められたのは明治元(1868)年6月のこと
(※14)。それによって7月、御館を岩国藩の「御城」と改称します。絵図には「御城跡」とあることから、絵図は少なくとも明治元(1868)7月以降に作製されたことが見えてきます。
加えて大きな鍵となるのが、吉川氏の墓所「御塔場」の右隣に「清泰院跡」とあることです。清泰院は現在異なる地にあり
(※15)、絵図の場所にあったのは明治3(1870)年10月まででした。つまり、絵図の作製時期は、明治3(1870)年10月以降であることが判明。さらには翌年7月には岩国藩が岩国県となり、11月には岩国県が山口県に合併されて御城が完全に役割を失い
(※16)、そして明治18(1885)年に御城跡へ吉香神社が移ってくるまでの間、おそらく明治初期が作製時期では、と絞り込むことができます。