萩城跡のすぐ近くに、江戸時代の街路や武家屋敷の土塀などが豊かに残る一帯があります。国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている堀内地区。そこは毛利(もうり)氏が三角州の河口にある指月山(しづきやま)に城(本丸)を築くとともに、三角州を埋め立てるなどして町をつくった際、上級家臣らに屋敷地として与えた、かつての萩城三の丸です。江戸時代の様子は城下町絵図を通して知ることができます。
ここで紹介する城下町絵図は1850年代の絵図を基にしたものです
(※1)。それを見ると三の丸の三カ所に城内・城外への出入り口、総門
(※2)が描かれています。「北の総門」のそばには、菊ヶ浜を背にした広大な屋敷地。主(あるじ)の名の向きは表門の向きを示し、この屋敷地の場合は、南面に表門があったことが分かります。北の総門を見張るように位置する、その屋敷は萩藩永代家老・益田(ますだ)家。絵図に記された益田弾正(だんじょう)とは益田親施(ちかのぶ)で、幕末「禁門の変
(※3)」の責めを負って自刃した三家老の一人です
(※4)。
益田家から南へ進んだ「中の総門」のすぐ近くには、毛利隠岐(おき)
(※5)の屋敷地。そこには現在、萩博物館があり、隅矢倉(すみやぐら)や長屋門が復元されています。その角を折れ、西へ真っすぐ伸びた道は、藩主が参勤交代などに利用したいわゆる「御成道(おなりみち)」。絵図を見ると、御成道沿いに広い屋敷地が並んでいます。そこにある名は、いずれも禄高1万石前後の上級家臣。今も御成道を歩くと、長い土塀が残り、屋敷地の広さがよく分かります。場所によっては、土塀の基礎石の積み方などが明確に異なる箇所があり、かつてはそこに門があったことなど、時を経たさまざまな変化に気付かされます。
水の都・萩を愛でる藩主の姿も見えてくる?!
絵図で御成道を西へ進むと、右に永代家老・福原近江(ふくばら おうみ)
(※6)の屋敷地があるところで長府屋敷(支藩・長府藩主の屋敷)に突き当たります。現在もその道は行き止まり。長府屋敷の地は萩高校野球場になっていて、その西には萩八景遊覧船が通る運河があります。でも絵図に運河はありません。実は、その運河は大正時代に洪水対策として開削されたもの。また、絵図では長府屋敷の西は屋敷地ではない描き方がされていて、別の城下町絵図を見ると、そこには蓮池が広がっていたことが分かります。
実は本丸を築く前、指月山は離れ小島でした。そのため埋め立てて陸続きとし、「深い淵
(※7)」だったところは埋め残し、そこを蓮池としたといいます
(※8)。絵図は屋敷地の並びだけでなく、土地の歴史を知る手がかりも教えてくれます。
絵図にある長府屋敷の角から御成道を外れ、南への道(広小路)を進むと、橋本川に面した藩主の川手御殿
(※9)や、口羽飛騨(くちば ひだ)の屋敷地へ至ります。その屋敷「口羽家住宅」は現在、堀内でただ一つ、武家屋敷の主屋が残る地で、ご子孫が居住し、主屋や庭を公開されています。庭に立てば目の前に、悠々と流れる橋本川や、川に浮かぶ小さな常盤島、対岸の玉江の風景。その美しい水辺の景観からは、隣の川手御殿からそれを愛でた、かつての藩主の姿が浮かび上がります。
城下町絵図は、萩のまちが今も古地図を使って歩けるまちであることや、三角州につくられた“水の都・萩”の歴史を、生き生きと伝えてくれます。