トップページ > 2022年3月25日 おもしろ山口学
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「萩城下町絵図」(NPO萩まちじゅう博物館提供)の写真

「萩城下町絵図」(NPO萩まちじゅう博物館提供)。安政元(1854)年から安政2(1855)年ごろ作製と考えられる原図を基に、NPO萩まちじゅう博物館が原本の字を活字に改めて作製したもの。赤い文字や白ぬき文字は、このおもしろ山口学に際して記入。萩城二の丸や内堀の北に本丸が位置する

江戸時代の絵図に見る萩藩上級武士のまち堀内

江戸時代、毛利氏の居城が築かれた萩。城を守るように、そのすぐ近くに設けられた上級武士のまちを、城下町絵図を通して紹介します。
萩城跡のすぐ近くに、江戸時代の街路や武家屋敷の土塀などが豊かに残る一帯があります。国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている堀内地区。そこは毛利(もうり)氏が三角州の河口にある指月山(しづきやま)に城(本丸)を築くとともに、三角州を埋め立てるなどして町をつくった際、上級家臣らに屋敷地として与えた、かつての萩城三の丸です。江戸時代の様子は城下町絵図を通して知ることができます。
ここで紹介する城下町絵図は1850年代の絵図を基にしたものです(※1)。それを見ると三の丸の三カ所に城内・城外への出入り口、総門(※2)が描かれています。「北の総門」のそばには、菊ヶ浜を背にした広大な屋敷地。主(あるじ)の名の向きは表門の向きを示し、この屋敷地の場合は、南面に表門があったことが分かります。北の総門を見張るように位置する、その屋敷は萩藩永代家老・益田(ますだ)家。絵図に記された益田弾正(だんじょう)とは益田親施(ちかのぶ)で、幕末「禁門の変(※3)」の責めを負って自刃した三家老の一人です(※4)
益田家から南へ進んだ「中の総門」のすぐ近くには、毛利隠岐(おき)(※5)の屋敷地。そこには現在、萩博物館があり、隅矢倉(すみやぐら)や長屋門が復元されています。その角を折れ、西へ真っすぐ伸びた道は、藩主が参勤交代などに利用したいわゆる「御成道(おなりみち)」。絵図を見ると、御成道沿いに広い屋敷地が並んでいます。そこにある名は、いずれも禄高1万石前後の上級家臣。今も御成道を歩くと、長い土塀が残り、屋敷地の広さがよく分かります。場所によっては、土塀の基礎石の積み方などが明確に異なる箇所があり、かつてはそこに門があったことなど、時を経たさまざまな変化に気付かされます。

水の都・萩を愛でる藩主の姿も見えてくる?!

絵図で御成道を西へ進むと、右に永代家老・福原近江(ふくばら おうみ)(※6)の屋敷地があるところで長府屋敷(支藩・長府藩主の屋敷)に突き当たります。現在もその道は行き止まり。長府屋敷の地は萩高校野球場になっていて、その西には萩八景遊覧船が通る運河があります。でも絵図に運河はありません。実は、その運河は大正時代に洪水対策として開削されたもの。また、絵図では長府屋敷の西は屋敷地ではない描き方がされていて、別の城下町絵図を見ると、そこには蓮池が広がっていたことが分かります。
実は本丸を築く前、指月山は離れ小島でした。そのため埋め立てて陸続きとし、「深い淵(※7)」だったところは埋め残し、そこを蓮池としたといいます(※8)。絵図は屋敷地の並びだけでなく、土地の歴史を知る手がかりも教えてくれます。
絵図にある長府屋敷の角から御成道を外れ、南への道(広小路)を進むと、橋本川に面した藩主の川手御殿(※9)や、口羽飛騨(くちば ひだ)の屋敷地へ至ります。その屋敷「口羽家住宅」は現在、堀内でただ一つ、武家屋敷の主屋が残る地で、ご子孫が居住し、主屋や庭を公開されています。庭に立てば目の前に、悠々と流れる橋本川や、川に浮かぶ小さな常盤島、対岸の玉江の風景。その美しい水辺の景観からは、隣の川手御殿からそれを愛でた、かつての藩主の姿が浮かび上がります。
城下町絵図は、萩のまちが今も古地図を使って歩けるまちであることや、三角州につくられた“水の都・萩”の歴史を、生き生きと伝えてくれます。
「萩城下町絵図」(NPO萩まちじゅう博物館提供)より永代家老・益田家の屋敷地、毛利隠岐(大野毛利家)の萩屋敷周辺の写真
「萩城下町絵図」(NPO萩まちじゅう博物館提供)より永代家老・益田家の屋敷地、毛利隠岐(大野毛利家)の萩屋敷周辺の写真

「萩城下町絵図」(NPO萩まちじゅう博物館提供)。北の総門の北西に永代家老・益田家の屋敷地。中の総門の西に毛利隠岐(大野毛利家)の萩屋敷があり、現在そこに萩博物館がある
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「萩城下町絵図」(NPO萩まちじゅう博物館提供)。北の総門の北西に永代家老・益田家の屋敷地。中の総門の西に毛利隠岐(大野毛利家)の萩屋敷があり、現在そこに萩博物館がある
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「萩城下町絵図」(NPO萩まちじゅう博物館提供)より長府屋敷、厚狭毛利家の萩屋敷周辺の写真
「萩城下町絵図」(NPO萩まちじゅう博物館提供)より皇后岩周辺の写真

「萩城下町絵図」(NPO萩まちじゅう博物館提供)。御成道と広小路の三差路に面して、長府屋敷がある。その西、毛利能登(のと)とある地は厚狭毛利家の萩屋敷で、毛利能登はその幕末の当主・元美(もとよし)。吉川監物(きっかわ けんもつ)とある地は、岩国領主の萩屋敷で、吉川監物はその幕末の当主・経幹(つねまさ)
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「萩城下町絵図」(NPO萩まちじゅう博物館提供)。御成道と広小路の三差路に面して、長府屋敷がある。その西、毛利能登(のと)とある地は厚狭毛利家の萩屋敷で、毛利能登はその幕末の当主・元美(もとよし)。吉川監物(きっかわ けんもつ)とある地は、岩国領主の萩屋敷で、吉川監物はその幕末の当主・経幹(つねまさ)
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「萩城下絵図」(部分)(藩政文書 山口県文書館蔵)の写真
「萩城下絵図」(部分)(藩政文書 山口県文書館蔵)の写真

「萩城下絵図」(部分)(藩政文書 山口県文書館蔵)。天和2(1682)-3(1683)年の作製と考えられる絵図。毛利甲斐守(かいのかみ)とある屋敷地が長府屋敷。その西に「蓮池」と記されている
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「萩城下絵図」(部分)(藩政文書 山口県文書館蔵)。天和2(1682)-3(1683)年の作製と考えられる絵図。毛利甲斐守(かいのかみ)とある屋敷地が長府屋敷。その西に「蓮池」と記されている
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土塀と夏みかんの写真
土塀と夏みかんの写真

萩の武家屋敷を象徴する土塀と夏みかん。明治維新後、禄を失った士族たちは屋敷地の一角を畑にして夏みかんを栽培。夏みかんは県外へ出荷されて大人気となり、その栽培は萩の一大産業となった。土塀は夏みかんの実を風から守るために残された
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萩の武家屋敷を象徴する土塀と夏みかん。明治維新後、禄を失った士族たちは屋敷地の一角を畑にして夏みかんを栽培。夏みかんは県外へ出荷されて大人気となり、その栽培は萩の一大産業となった。土塀は夏みかんの実を風から守るために残された
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口羽家住宅の写真
口羽家住宅の写真

口羽家住宅。堀内で現在、武家屋敷の主屋が唯一残る。表門は江戸中期の建築。屋敷全体が国の重要文化財に指定されている。庭や主屋は公開されており、庭からは橋本川を眺めることができる
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口羽家住宅。堀内で現在、武家屋敷の主屋が唯一残る。表門は江戸中期の建築。屋敷全体が国の重要文化財に指定されている。庭や主屋は公開されており、庭からは橋本川を眺めることができる
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堀内の鍵曲の写真
堀内の鍵曲の写真

堀内の鍵曲(かいまがり)。鍵曲とは、鍵形に曲がった見通しのきかない迷路のような街路。絵図では口羽家から東へ進んだ、志道(しじ)家や国司家の辺りにある。さらに東へ進むと、城内と城下を隔てる外堀に架かる「平安古の石橋」がある。そのそばにかつて平安古の総門があった
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堀内の鍵曲(かいまがり)。鍵曲とは、鍵形に曲がった見通しのきかない迷路のような街路。絵図では口羽家から東へ進んだ、志道(しじ)家や国司家の辺りにある。さらに東へ進むと、城内と城下を隔てる外堀に架かる「平安古の石橋」がある。そのそばにかつて平安古の総門があった
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  1. 個人蔵の屏風仕立ての絵図を基に、NPO萩まちじゅう博物館が原本の字を活字に改めて作製したもの。屋敷地に記された主の官職名や、安政2(1855)年に竣工した姥倉運河が描かれていないことなどから、原図は安政元(1854)年から安政2(1855)年ごろの作製と考えられている。本文※1へ戻る
  2. 北の総門や、中の総門の他、平安古(ひやこ)の総門があった。本文※2へ戻る
  3. 禁門の変は元治元(1864)年。おもしろ山口学「『禁門の変』の責任を負った三家老の一人、益田親施」参照。本文※3へ戻る
  4. 他に福原元僴(ふくばら もとたけ)と、国司親相(くにし ちかすけ)。この絵図で国司熊之介と記されているのが親相。国司家の屋敷地は現在、萩西中学校の西半分。本文※4へ戻る
  5. 毛利熈頼(ひろより)。現在の平生町を本拠とした大野毛利家の幕末の当主。大野毛利家は中世、津和野を本拠とした吉見(よしみ)氏の流れをくむ。吉見広長(ひろなが)の二度目の出奔による吉見家断絶後、岩国領主・吉川広家(ひろいえ)の男子が吉見氏の娘をめとって吉見家を再興。その後、初代萩藩主から毛利の苗字を与えられた。なお「ひろより」の「ひろ」の字は、系図では「臣」の左側の部首が、にすい。本文※5へ戻る
  6. 福原近江とは福原親俊(ふくばら ちかとし)。安政5(1858)年死去。禁門の変の責任を負って自刃した福原元僴は、親俊の次の福原家当主。本文※6へ戻る
  7. 流れが滞って、深く水をたたえたところ。本文※7へ戻る
  8. 村田峯次郎編『長門国誌 長門金匱』(長周叢書5)1891。本文※8へ戻る
  9. 別名「花江(はなのえ)御殿」「常盤江(ときわえ)御殿」。幕末の萩藩主・毛利敬親(たかちか)は御殿内に茶室を造り、安政3(1856)年9月には、一時疎遠となっていた岩国領主・吉川経幹(きっかわ つねまさ)を招いて親睦を深めるなどしている。本文※9へ戻る

萩まちじゅう博物館「まち歩き」

NPO萩まちじゅう博物館の「まちかど解説員」による案内で、古地図を片手に萩を歩きます。全12コース中、堀内重要伝統的建造物群保存地区については「古地図を片手に、土塀と夏みかんの謎解きウォーク!」(堀内伝建地区コース)として2コースがあります。なお、萩博物館の歴史展示室(常設)では、さまざまな城下町絵図が展示されており、企画展示室では「百年の布-美しき襤褸(ぼろ)の世界-」を6月19日(日曜日)まで開催中です。
まち歩きの開催期間: 通年(前日12時までに要予約。まち歩き各コースの「申し込みHP」の開催カレンダーを参照)

参考文献