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「御国廻御行程記」(山口県文書館蔵)より厚狭部分の写真

「御国廻御行程記」(山口県文書館蔵)より厚狭部分。江戸時代の厚狭の様子が描かれている。鴨大明神や皇后岩以外にも、室町時代の大名・大内氏ゆかりのこと(家臣だった冷泉隆豊(れいぜん たかとよ)屋敷跡の伝承など)が記されている

江戸時代の絵図に見る厚狭 -琳聖太子の母と寝太郎の伝説-

江戸時代、山陽道の宿場町として栄えた厚狭。かつての町の様子を、寝太郎の伝説なども記された江戸時代の絵図を通して紹介します。
山陽道の宿場町としてにぎわった山陽小野田市厚狭(あさ)。かつての様子は、萩藩が寛保2(1742)年に作製した街道絵図「御国廻御行程記(おくにまわりおんこうていき)」で知ることができます。
この街道絵図には、太い帯状の線が東から西へ描かれています。それが山陽道で、北東に「鴨大明神(現在の鴨神社)(※1)」があります。その参道近くの山陽道には「御高札(※2)」や、市(いち)の神「市エビス」。その辺りから街道沿いに家が立ち並び、蔵も描かれ、商いで栄えた厚狭市の様子が見えてきます。
厚狭市を抜けると山陽道は厚狭川の手前でクランク状に折れ、板橋を渡って対岸へ。その川に大岩が描かれ、「皇后岩」とあります。皇后岩には、室町時代の大名・大内(おおうち)氏(※3)ゆかりの伝説があり、その伝説は大内氏がルーツを百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)の第三王子・琳聖太子(りんしょうたいし)(※4)としていたことと関係があります。
皇后岩の伝説とは、次のようなものです。「琳聖太子の母が太子を慕って海を渡ってきたが、沖で船の楫(かじ)が折れたため白江(※5)の浦で上陸し、川辺を伝って上り、水際の大岩で休まれた。そのことから大岩を皇后岩というようになった…(※6)」。
その琳聖太子の母を祀(まつ)るため、京都の賀茂大明神を勧請(※7)したとされるのが、鴨大明神。かつて鴨大明神の祭礼の際には、皇后岩が御旅所(おたびしょ)(※8)となっていました(※9)
時を経て、皇后岩は昭和30年代以降、川の中で砂に埋もれるなどして所在不明に。ところが平成22(2010)年の水害後、河川改修に際し、川底で見つかれば引き揚げてほしいと地元から要望があり、その工事の過程で幸運にも発見。皇后岩は引き揚げられ、かつての板橋の北、現在の鴨橋のそばへ設置され、今年2月、説明板も立てて除幕式が行われました。

3年3カ月寝て荒れ地を美田に!? 厚狭の寝太郎

厚狭の伝説で最も有名なものといえば「寝太郎物語」です。この街道絵図には、その物語に関わる「祢(寝)太郎塚」が描かれ、次のような文章が添えられています。「祢太郎が千町ヶ原(せんちょうがはら)に(厚狭川の)水を引く工夫をこらして(※10)一帯を水田に変え、死後、祢太郎塚・千町塚としてまつられるようになった」。
ただし、現在の寝太郎物語はそれとはちょっと異なります。「厚狭に寝てばかりいる若者がいて、寝太郎と呼ばれて村人たちから笑われていた。3年3カ月寝たある日、起きると、庄屋である父に『千石船を作って船いっぱいのわらじを買ってくれ』と頼んだ。父は訳が分からないままその通りにしてやると、寝太郎は新しいわらじを船に積み込み、佐渡の金山へ。金山で働く人々の使い古したわらじを新しいわらじに、ただで交換。厚狭に帰ってわらじを洗って砂金を取り出し、そのお金で川を堰き止め、灌漑用水路を作り、荒れ地を豊かな水田に変えた…」。
寝太郎についての話は、もともとは街道絵図にあるようなシンプルな内容だったのでしょう。後に創作が加わり、現在のような物語になったと思われます。いずれにせよ寝太郎は厚狭の人々に感謝され、寛延3(1750)年には祠が建てられて祀られました。祠の地はかつて荒れ地から水田へと生まれ変わった千町ヶ原のほぼ中央。現在も「寝太郎荒神社」としてその地にあります(※11)。また、千町ヶ原の最北、円応寺(えんのうじ)にあった荒神堂にも寝太郎は祀られていたといいます。昭和3(1928)年、その跡地で稲荷木像を発見。それがご神体だったのではないかと考えられ、その後、権現堂が建てられ、現在そこに稲荷木像は祀られています。毎年春の寝太郎まつりでは、稲荷木像を載せた舟形の山車がまちをにぎやかに練り歩きます。
一度は失われながら引き揚げられた皇后岩や、まつりなどを通して親しまれている寝太郎。厚狭では、江戸時代の絵図に描かれた歴史や伝説が、今も暮らしの身近にあり続けています。
「御国廻御行程記」(山口県文書館蔵)より厚狭部分の写真
「御国廻御行程記」(山口県文書館蔵)より厚狭部分の写真

「御国廻御行程記」(山口県文書館蔵)より厚狭部分。厚狭市は江戸時代、萩藩領だった。ここに描かれた山陽道は、現在の県道225号(かつての国道2号)の南側に平行して通る道。厚狭市付近は往時の面影が残る
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「御国廻御行程記」(山口県文書館蔵)より厚狭部分。厚狭市は江戸時代、萩藩領だった。ここに描かれた山陽道は、現在の県道225号(かつての国道2号)の南側に平行して通る道。厚狭市付近は往時の面影が残る
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「御国廻御行程記」(山口県文書館蔵)より皇后岩周辺の写真
「御国廻御行程記」(山口県文書館蔵)より皇后岩周辺の写真

「御国廻御行程記」(山口県文書館蔵)より皇后岩周辺。厚狭市の南側は、厚狭毛利家の本拠地が置かれた地。御米蔵の横を南下した、妙慶寺(現在は貞源寺)のさらに南に厚狭毛利家の居館や学館「朝陽館」があった
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「御国廻御行程記」(山口県文書館蔵)より皇后岩周辺。厚狭市の南側は、厚狭毛利家の本拠地が置かれた地。御米蔵の横を南下した、妙慶寺(現在は貞源寺)のさらに南に厚狭毛利家の居館や学館「朝陽館」があった
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現在の「皇后岩」の写真
現在の「皇后岩」の写真

現在の「皇后岩」。かつては厚狭川の中にあり、失われてしまっていたが、近年の河川改修の際に発見。鴨橋の東のたもとに設置され、今年2月、説明板が設置された。橋の西のポケットパークには、「右 あつ」などと刻まれたかつての山陽道の道しるべが設置されている
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現在の「皇后岩」。かつては厚狭川の中にあり、失われてしまっていたが、近年の河川改修の際に発見。鴨橋の東のたもとに設置され、今年2月、説明板が設置された。橋の西のポケットパークには、「右 あつ」などと刻まれたかつての山陽道の道しるべが設置されている
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現在の鴨神社の写真
現在の鴨神社の写真

現在の鴨神社。社殿には「鴨大明神」の扁額が掲げられている。瓦や提灯には大内氏ゆかりの大内菱がある。江戸時代の記録によれば、かつては大内氏の始祖とされる琳聖太子やその母も祀られていた
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現在の鴨神社。社殿には「鴨大明神」の扁額が掲げられている。瓦や提灯には大内氏ゆかりの大内菱がある。江戸時代の記録によれば、かつては大内氏の始祖とされる琳聖太子やその母も祀られていた
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「御国廻御行程記」(山口県文書館蔵)より祢(寝)太郎塚から円応寺部分の写真
「御国廻御行程記」(山口県文書館蔵)より祢(寝)太郎塚から円応寺部分の写真

「御国廻御行程記」(山口県文書館蔵)より祢(寝)太郎塚から円応寺部分。祢太郎塚の右に当時の伝承が記されている。円応寺の左下には、大内氏家臣・杉重矩(しげのり)の石塔があると記されている。石塔は、明治時代に他家から杉家を継いだ杉孫七郎(すぎ まごしちろう)建立の碑と共に現存
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「御国廻御行程記」(山口県文書館蔵)より祢(寝)太郎塚から円応寺部分。祢太郎塚の右に当時の伝承が記されている。円応寺の左下には、大内氏家臣・杉重矩(しげのり)の石塔があると記されている。石塔は、明治時代に他家から杉家を継いだ杉孫七郎(すぎ まごしちろう)建立の碑と共に現存
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寝太郎荒神社の写真
寝太郎荒神社の写真

寝太郎荒神社。地区の人々が寝太郎に感謝し、寛延3(1750)年に祠を建てて祀ったもの。JR厚狭駅新幹線口近くにある
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寝太郎荒神社。地区の人々が寝太郎に感謝し、寛延3(1750)年に祠を建てて祀ったもの。JR厚狭駅新幹線口近くにある
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  1. 当初は厚狭の沓(くつ)にあり、その後、厚狭市へ、江戸時代に現在地の真樹(まさき)山へ移転。本文※1へ戻る
  2. 幕府や藩の御触書(おふれがき)を掲げた高札場(こうさつば)。人通りの多い所に設けられた。本文※2へ戻る
  3. 山口を本拠とした西国一の大名。本文※3へ戻る
  4. 聖明王は日本に仏教を伝えたことで知られるが、琳聖太子は実在しない。当時の大名の多くがルーツを源氏・平氏・藤原氏・橘氏として称した中、朝鮮王朝と交流していた大内氏は独自のルーツを主張した。琳聖太子の伝承におけるゆかりの地として、下松・防府・山口などがある。本文※4へ戻る
  5. その伝説によれば、楫が折れたことから、白江の地名は梶浦(現在の地名)となったという。琳聖太子の母は梶浦でも休み、その岩も皇后岩と呼ばれた。本文※5へ戻る
  6. 「鴨社略縁起」『防長風土注進案』16吉田宰判による。それによれば、琳聖太子の母はさらに川上へ。刈られていた麻で仮の庵を作って夜を過ごした。朝になると履物がなく、供の人々が探すと川上で見つかり、そこに御殿を作って暮らし、その地で没したという。履物が見つかった地の名を久津(くつ。現在は沓)というようになったとされる。本文※6へ戻る
  7. 『防長寺社由来』4による。なお『防長風土注進案』によれば、江戸時代には、賀茂大明神のほか、皇后(琳聖太子の母)の持仏だった十一面観音や、皇后、百済の聖明王、北辰妙見など八柱の祭神が祀られていた。現在は琳聖太子ゆかりの祭神は祀られていない。本文※7へ戻る
  8. 祭礼の際、神輿(みこし)が本宮から渡御(とぎょ)して一時安置される所。本文※8へ戻る
  9. かつて梶浦の皇后岩も御旅所だったという。本文※9へ戻る
  10. 現在も「大井手(寝太郎堰)」や「寝太郎用水路」など、ゆかりの地は厚狭の各所にある。なお、千町ヶ原は、ちまちがはらともいう。本文※10へ戻る
  11. 現在は住宅地や商業地などとなっているが、北部を中心に水田が残る。神社の地は、JR厚狭駅新幹線口の近く。本文※11へ戻る

古地図を片手に、まちを歩こう。

古地図リーフレットを活用し、地元ガイドの説明を聞きながら歩く、人気のガイドウォーク。厚狭もコースの一つです。なお、「古地図を片手に、まちを歩こう。」公式サイトの「古地図で巡るコース一覧」で実施日などの詳細を、「古地図で巡るコース(マップ)」で古地図を見ることができます。
◎厚狭編のマップで「御国廻御行程記」の厚狭部分を見ることができます。
開催期間:3月まで。なお、厚狭編は3月5日(土曜日)・19日(土曜日)に開催。その他の日もご相談に応じます(いずれの場合も1週間前までに山陽小野田観光協会に要予約)
開催場所:山陽小野田市厚狭をはじめ県内各地

参考文献