無田の湯から南へ進むと、古刹・妙青寺
(※5)が描かれています。この街道絵図には「御本陣」とも記され、萩藩主は妙青寺に宿泊したことが分かります。また、長府藩主は御茶屋
(※6)を湯屋町に設けており、御茶屋は町の湯の西隣
(※7)にあったと考えられています。その長府藩主とは3代藩主・毛利綱元(つなもと)。御殿湯を設けた藩主でもありました。また、入湯して病が回復したことから薬師如来に感謝し、元禄6(1693)年に薬師院も建立しており、この街道絵図には「湯ノ薬師」として記されています。
明治維新後、川棚温泉は元萩藩士で明治の元勲(げんくん)の一人として知られる井上馨(いのうえ かおる)
(※8)からも愛されました。馨はリウマチの静養のため明治時代から大正時代、川棚温泉に度々滞在。馨はかつての町の湯(当時の名は鍵湯・下湯)の御殿湯で入浴し、その斜め前にあった旅館を定宿にしたといい、町の湯を「青龍泉」、無田の湯(当時の名は上湯)を「寿永泉」と命名。青龍泉の名は川棚温泉の縁起である青龍伝説
(※9)に、寿永泉は川棚温泉の発見年とされるものにちなんだ名でした。
病に苦しめられていた長府藩主や井上馨も、萩藩主もあえて寄り道するほど愛した川棚温泉。今は、かつての無田の湯の地にある温泉銭湯が青龍泉の名を受け継ぎ、川棚温泉を愛する人々に親しまれ続けています。