鋳銭司とは、奈良時代や平安時代に銭貨(せんか)を鋳造(ちゅうぞう)した役所のこと。全国に6カ所あったと考えられ、そのうちの2カ所が銅の産出が盛んだった山口県
(※1)にありました。一つは長門鋳銭司
(※2)。もう一つが周防鋳銭司で、記録
(※3)によれば長門鋳銭司廃止後の天長2(825)年から11世紀初めごろまで、当時、国内有数の鋳銭司
(※4)として、いわゆる皇朝十二銭
(※5)のうち8種類を造っていたとされます。
その周防鋳銭司はどこにあったのか。関連の地名が多く残る
(※6)鋳銭司や陶(すえ)地域では、といわれてきました。昭和40年代、鋳銭司字大畠で企業の進出を前に発掘調査
(※7)を実施。すると幅10メートルを超える流路の跡(溝状遺構)が見つかり、その流路跡などから坩堝(るつぼ)
(※8)や鞴羽口(ふいごはぐち)
(※9)と共に、嘉祥元(848)年から造られた銅銭「長年大寳(ちょうねんたいほう)」の破片など大量の鋳造関連遺物
(※10)が出土しました。その第1次・2次調査の成果に基づき、一帯は国指定史跡に。ただし、発掘調査は史跡指定地のわずかな部分しか行われていなかったため、その後、調査の再開が望まれるようになりました。
ノルマに汗し、時には失敗した職人たち? 事務にいそしむ官人たち
そうした中、史跡内の約半世紀ぶりの発掘調査が平成29(2017)年から山口市と山口大学によって再開されました。その年の調査(第3次)では、史跡内の南東部、昭和40年代の調査で見つかった流路跡の周辺で、大量の鋳造関連遺物を発見。さらにその中からさびついた金属の塊が見つかりました。
X線CT撮影などの結果、それは5枚の長年大寳が付着したものと判明。しかも鋳造時にできるバリ
(※11)と呼ばれる余分な部分が付いていたことから、仕上げに至らなかった“鋳損じ銭”だと分かりました。つまりそれは、周防鋳銭司での鋳造を明らかに物語るものだったのです。さらに翌年の第4次調査では、長年大寳よりも古い、承和2(835)年から造られ始めた「承和昌寳(じょうわしょうほう)」の鋳損じ銭2枚が出土。小さな破片ながら、天長2(825)年から周防鋳銭司はあったとされる記録に、また一歩近づく大きな発見でした。
現在、第7次調査を行っており、これまでに史跡内のやはり南東部で炉跡が複数発見されています。その炉跡は大型の溶解炉
(※12)1基と、小型の複数の鋳造炉
(※13)の2種類。そしてそれらの炉を覆うように東西約6メートル・南北18メートル以上の建物が建つ工房があったことも多くの柱穴の発見から分かってきました。工房内の端に溶解炉が1基。その炉から少し間を空けて鋳造炉が一直線上に4基。そして工房はさらに北に続く大規模なもので、もっと多くの炉があった可能性が現在高まっています。
その工房が位置するのは、昭和40年代に見つかった流路跡のすぐ北西。また、流路跡の東でも、古代における県内最大級の木組の井戸や柱穴
(※14)が発見されました。井戸や流路跡などからは、大量の木簡
(※15)や、人面が描かれた呪符(じゅふ)
(※16)などが出土。帳簿に用いたと考えられる木簡も数多くあり、井戸の周辺では事務作業が行われていた可能性が見えてきました。さらに、その井戸などは周防鋳銭司跡の東限と考えられていた流路跡の東側での発見だったことから、周防鋳銭司跡はさらに東側に広がる可能性まで出てきました。
鋳損じ銭などから、9世紀半ばまでには銭貨造りが始まっていたことが確定した周防鋳銭司跡。記録によれば、年間1,100万枚を目標に造られていたといいます。発掘調査からは、工房でノルマ達成に向けて汗し、時に失敗しながら懸命に働く人々、木簡を手に事務にいそしむ人々の姿が浮かび上がってきます。