陶晴賢(すえ はるかた)といえば、主君・大内義隆(おおうち よしたか)に背いて自刃に追い込んだ“逆臣
(※1)”で、毛利元就(もうり もとなり)
(※2)による"義隆の弔い合戦(厳島の戦い)
(※3)"で討伐されたのは天罰
(※4)…というふうに、悪役のイメージで語られてきました。でも、それは本当の姿なのでしょうか。
陶氏は早くに分かれた大内氏一族。山口を本拠とする西国一の大名・大内氏の下で、周防国(すおうのくに)の守護代(しゅごだい)
(※5)を代々務め、やがて大内氏重臣筆頭の地位に。そして16世紀前半、大内義隆を支える陶氏の当主となったのが晴賢でした(当時の名は隆房(たかふさ))。中国地方で勢力を広げつつあった尼子(あまこ)氏
(※6)との戦いでは、大内氏方の軍を率い、窮地に陥った毛利元就を救援。元就との関係を深めました。
晴賢の実像が十分に分かる当時の確かな史料はありません。ただし、江戸時代中期の記録
(※7)に「夜寝るときは幼い子の足までも大内氏の館の方へ向けさせなかった」などとあります。江戸時代初期の記録
(※8)には、尼子氏に大敗した悲惨な撤退の際、「米を兵らに買い与え、わが身は魚の内臓をすすって水を飲み、飢えをしのいだ」という記載。こうした記録からは従来のイメージと異なり、主君を敬い、家臣を思いやる晴賢の姿が見えてきます。
また、歴代当主で最大の栄華を誇った大内義隆へのクーデターは、実は他の大内氏重臣や、毛利元就らも賛同してのことでした
(※9)。彼らが新たな主君としたのは、大内氏の血を引く人物
(※10)。晴賢が義隆にとって代わろうとしたのではありませんでした。しかし、やがて晴賢は元就から断交され、厳島の戦いへ。晴賢を討伐された逆臣とするイメージは、勝ち残った側から見た後の歴史観によって作られたものといえます。
さらに近年、晴賢は大内氏一族の問田(といだ)氏からの養子だった可能性が高いことが分かりました
(※11)。当時は家名の存続を重んじた時代。重臣筆頭の家を継いだ気負いなどが、自分たちが支えてきた主君の家「大内家」の将来への憂いを生み、クーデターへと発展したのかもしれません
(※12)。
地元でも長く続いた陶氏の虚像。ゆかりの地は今、ふるさとの誇りに
晴賢を悪役とするイメージは、その館や山城
(※13)があった周南市でも長く続き、子どもが悪さをすると「陶晴賢のようになるぞ!」といわれていました。昭和43(1968)年、その伝承に疑問を持っていた当時青年団長の中村秀昭(なかむら ひであき)さんは、陶氏の本城「若山城跡
(※14)」への新春登山を開催。そのころ城跡は荒れ放題だったといいます。仲間たちと共に山道や本丸跡などの整備を重ね、やがて若山城跡は県指定文化財(史跡)に。中村さんらはその後「七人の侍の会(現 陶の道を発展させる会)」を結成し、歴史を調べて晴賢の従来像が誤りであることに確信を持ち、三武将(晴賢・義隆・元就)のジャンボ紙芝居を創作。NHK大河ドラマの誘致活動を県内外の三武将ゆかりの地に呼び掛けて展開すると、平成9(1997)年には「毛利元就」の放映が実現し、若山城も登場しました。
また、そうした活動とは別に、若山城本丸跡と館跡を結ぶ道を、やぶを切り開くなどして数年がかりで探し当てた方がいました。七人の侍の会は平成8(1996)年からその道を活用した「陶の道ウォーク」を開催
(※15)。そのコース「陶の道・若山城登城のみち」は「美しい日本を歩きたくなる道500選」に選ばれ、子どもたちにも親しまれるようになりました。
晴賢生誕500年の今年、陶の道を発展させる会は若山城跡への登山道入り口に、それを祝う大きな看板を、新南陽若山ライオンズクラブは「陶氏と若山城は我らの誇りなり」と記した記したのぼり旗を掲げました
(※16)。新南陽商工会議所は若山城跡の御城印
(※17)を作り、販売を開始。ふるさとの歴史を見つめ直し、誇りを持って伝えようとする動きが今、広がっています。