安芸国(あきのくに)
(※1)の一武将から中国地方の覇者となった毛利元就(もうり もとなり)。今年は没後450年に当たります。元就といえば、有名なのが“三本の矢”の話。それは一般的に次のような内容で知られます。元亀2(1571)年、元就は死を前に、子らを呼び、子らの数ほど矢を取って「一本ずつ折ればたやすく折れるが、一つに束ねれば折れがたい」「兄弟で助け合うことが大事だ」と戒めた…。明治時代の修身
(※2)の教科書
(※3)などに掲載されてきた話です。
でも、この話は事実ではありません。話の元になったのは「三子教訓状」と呼ばれる、元就が三人の息子に宛てた手紙と考えられており、三本の矢の話と異なる点が実は幾つもあります。例えば、手紙には三本の矢が全く登場しないこと。そのとき元就と共にいたのは長男の隆元(たかもと)
(※4)のみで、次男で吉川(きっかわ)家の養子となった元春(もとはる)や、三男で小早川(こばやかわ)家の養子となった隆景(たかかげ)はいなかったこと。そしてその手紙は、元就が亡くなる元亀2(1571)年ではなく、弘治3(1557)年11月、長男の隆元と共に、周防国の富田(とんだ。現在の周南市)にいたときに書かれたとされていることです
(※5)。
元就は筆まめで、長い手紙を書くことでも知られ、とりわけその手紙は全長約3メートルと長く、次のようなことが書かれています。「幾度も申しますが、毛利の名字が末代までもすたれないように、心がけ、気遣いが最も肝心です」「元春・隆景は、他名の家を相続しましたが、これは当座のことであって、毛利の二字を、ないがしろにし、忘却するのは、全くいけないことです」「三人の仲が、少しであっても懸子(かけご)
(※6)で隔てられたように疎遠になったならば、ただもう三人は滅亡すると考えておきなさい。(中略)元就の子孫は、格別に諸人から憎まれていますから、後先の差はあったとしても、一人として討ちもらされることはないでしょう」
(※7)…。内容的には三本の矢をほうふつとさせるものですが、元就はなぜこのとき、長々と手紙を書かなければならなかったのでしょうか。
「三子教訓状」から見えてくるものは、本当に教訓?!
元就はこれより10年前の天文16(1547)年頃、長男の隆元に家督を譲っていました。毛利氏はもともと、安芸国吉田荘(よしだのしょう)(現在の広島県安芸高田市)を本拠とする一領主。山口を本拠とする西国一の大名・大内(おおうち)氏の傘下で、元就は近隣の領主らを味方に付けて台頭。家督を譲った後も政務や軍事などに関与し、また、隆元を支えるため、家臣らの体制づくりや、三人の息子らと頻繁に手紙を交わして意思疎通を図りました。
やがて元就・隆元父子らは厳島の戦い
(※8)を経て、弘治3(1557)年4月、大内氏を滅亡させます
(※9)。それによって領地は急拡大。一方で、当主の権力強化を目指したい元就と有力家臣らの意見との相違、息子たち同士の意識のずれ、北部九州や出雲の有力大名との敵対化など、内外に多くの問題を抱えるようになります。
そうした中で大内氏滅亡から半年後の11月、元就らに緊張が走ります。大内氏旧臣や反毛利の領民らが蜂起し、山口をはじめ富田・富海・右田・長府・赤間関など防長両国の各地で毛利軍への一揆が起きたのです
(※10)。大内氏を滅亡させ、安芸国に戻っていた元就・隆元父子は18日には急遽、軍を率いて再び周防国へ。そのとき本陣を置いた地が富田とされ、そこで元就は25日、三子教訓状をしたためたのでした。
他家を相続させた二人の息子にまで「毛利こそが大事」と繰り返し説いた元就。長々とした三子教訓状からは、家の行く末を心配する強い危機感とともに、兄弟の結束によって家臣らを圧倒して毛利家を強化し、一族間の内紛も防ぎ、そして反対勢力に勝ち抜いていこうとする元就の政治戦略が見えてきます。