元禄元(1688)年には、萩藩3代藩主・毛利吉就(もうり よしなり)が俵山を訪れています。それは萩城を発って帰城するまで19日間に及んだ長湯治の旅でした。『防長風土注進案』によれば、そのとき正福寺を御茶屋と定め、正福寺の僧侶を別の所(御茶屋のそば)へ移らせています
(※5)。その代わり、寺には迷惑料として普段は湯治客を泊め、その宿賃を寺の収入とすることを許可。寺にとってはありがたい話だったでしょう。
宝永7(1710)年には、萩藩5代藩主・毛利吉元(よしもと)が湯治に訪れています。一行は総勢299人という大所帯。14日間の湯治で、吉元は温泉を楽しむだけでなく、鷹狩りへ二度出かけ、三ノ瀬(そうのせ)の焼物
(※6)を取り寄せて眺め、俵山村の能満寺の宝物(ほうもつ)を持参させて観賞し、6人の神主から入湯の無事を祈祷してもらい…と多忙な日々を過ごしています。その上、ある日は、御茶屋の脇、正福寺前の空き地に舞台などを作らせ、遠く離れた瀬戸崎(現在の長門市仙崎)祇園社
(※7)の踊り手たちを呼び寄せて、朝から晩まで踊りを見物。別の日にも、近くに来ていた宮市(現在の防府市宮市)の一座を前述の舞台で上演させています。吉元は俵山の湯が気に入ったようで、享保11(1726)年にも訪れていて、そのときの目的は痔の療養でした。
俵山温泉は古くから優れた効能
(※8)で知られ、他国(防長以外)から訪れる人も多い湯の町でした。ところが延享4(1747)年以降、お殿さまの湯治は湯本温泉に変わります。明和5(1768)年には、湯本温泉に御茶屋が設置され、俵山の御茶屋は解除されます。お殿さまの湯治場が湯本に変わった理由は不明ですが、俵山温泉への一般の湯治客があまりに増えたため、とも考えられています
(※9)。
その後、幕末の嘉永4(1851)年、俵山温泉は大火に襲われ、湯屋も、28軒あった宿屋も、正福寺も、薬師堂も焼失します。それでも村の人々は湯町を復興させ、薬師堂も再建(現在は薬師寺)。大火の翌年には、萩藩13代藩主・毛利敬親(たかちか)の側室が湯治にやってきています。
お殿さまをはじめ、多くの人々に愛されてきた俵山温泉。病からの回復を願ってやってくる人々を、街道沿いの高台にある薬師寺
(※10)が今も見守り続けています。