江戸時代の岩国
(※1)の記録に「梅雨左衛門(つゆざえもん)」なるものがあちこちの村に登場します。六呂師(ろくろし)・祖生(そお)・岸根(がんね)村(いずれも現在の岩国市)。その梅雨左衛門とは、多くは大岩の割れ目などにすむ白い小さな蛇(ヘビ)だといい、岩国藩士がまとめた地誌『玖珂郡志
(※2)』には、六呂師村の梅雨左衛門について次のように記されています。
「田のそばに高さ四間(約7メートル)ほどの大岩があり、岩の中に一双の小蛇がいる。形は烏蛇(うじゃ。からすへび)
(※3)のようで、頭の部分が白い。毎年入梅(梅雨入り)の日、岩の穴より頭を出し、半夏(はんげ)
(※4)の日に初めて穴の中に入る。梅雨左衛門という。この蛇、往古より太らず、年々同じ形である。もし遅く出るときは祭事を行う」。
これによれば、梅雨左衛門は梅雨をもたらす水神としてあがめられていたことが分かります。六呂師村の大岩は実在し、かつて棚田が広がっていた道のそばにそびえ、しめ縄が張られた割れ目から梅雨左衛門は姿を現していたようです。
タブーあり。触らぬ神にたたりなし!?
梅雨左衛門の伝承は岩国だけでなく、八代(やしろ)村(現在の周南市)などにもあるほか
(※5)、島根県
(※6)や広島県にも類似の伝承があります。八代村の場合、萩藩の地誌『防長風土注進案
(※7)』で次のように記されています。
「河原畑という所の路傍に大岩があり、その下に穴があり、往古より毎年五月梅雨に入る日より、毎朝五ツ時(どき)
(※8)までに赤色の小さな蛇が頭を出す。その小蛇がいなくなればたちまち梅雨は晴れる。万一、里人が小蛇に触れると梅雨が晴れてしまうため、童(わらべ)であっても触れてはならない。梅雨左衛門というのは、かつて梅雨左衛門という人がいて、死んだ後に亡霊が小蛇に化けたことによるもので、その名を付けたと伝わる」。
このように触ることをタブーとする伝承は、岩国の怪談などを集めた『続・岩邑(がんゆう)怪談録
(※9)』の中、六呂師の梅雨左衛門の話にも出てきます。それは次のような内容です。
六呂師村にやってきた牛馬の仲買人が「梅雨左衛門も冷たかろう。温めてしんぜよう」と、煙管(きせる)でチョンと打った。すると梅雨左衛門は、すっと穴へ。その後、仲買人が峠の向こうのわが家への帰り道を進んでいると、頭上を何か鞠(まり)のような黒いものが越していき、家の上にとどまった。それは入道雲で、不思議に思って家へ急ぐと、妻子は(豪雨・洪水で)家と共に流されてしまって跡形もなかった…。なんとも怖い話です
(※10)。
田のほとり、道のほとりの岩の穴にすむ梅雨左衛門は、さまざまある水神のなかでも、特に命の源ともいえる梅雨時の農業用水と深く関わる、聖なる存在のように思われます。梅雨がなければ田植えはできず、しかし雨が多すぎれば田や稲が流され、甚大な被害に苦しめられます。降っても降らなくても心配な、昔も今も梅雨は人々の祈りを誘う自然現象です。
梅雨をもたらし、ときには梅雨明けを早めてしまったり、豪雨を招いたり、梅雨を操る梅雨左衛門さま。手出しはいたしませんので、梅雨明けまでどうか穏やかに。