トップページ > 2023年3月24日 おもしろ山口学
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(左)「功山寺仏殿」(下関市)と(右)「若山城跡」の桜の写真

(左)「功山寺仏殿」(下関市)。仏殿は国宝。義長は弘治3(1557)年4月、この寺(当時は長福寺)で自刃した。(右)周南市にある陶氏の本城「若山城跡」の桜。晴賢への顕彰活動によって370本近い桜が植樹されている

さらば!! 西国一の大名・大内氏「最後の当主」大内義長

室町時代、西国一の大名として栄華を誇った大内氏。山口を本拠に中国地方や北部九州に強大な力を持った大名でした。16世紀半ば、台頭してきた毛利氏に防長両国を侵攻され、最後の当主となった大内義長を紹介します。
室町時代、幕政を左右するほどの力を誇った西国一の大名・大内(おおうち)氏。その最後の当主は大内義長(よしなが)でした。しかし最後の当主を、大内氏重臣・陶晴賢(すえ はるかた)(※1)らによるクーデターで自刃した大内義隆(よしたか)(※2)と捉える見方もあります。それはなぜなのでしょう。
義長は豊後国(現在の大分県南部)の大名・大友(おおとも)氏の生まれ。キリシタン大名として知られる大友宗麟(そうりん)の実弟で、母は大内義隆の姉とされます(※3)。大友晴英(はるふさ)と名乗っていたころ、大内義隆の養子となりますが、義隆に実子が誕生。養子の話は流れ、晴英は無念に思っていました(※4)
天文20(1551)年、陶晴賢らがクーデターを起こし、大内義隆が深川(現在の長門市)の大寧寺で自刃。陶晴賢らに擁立され、大内氏当主として迎えられたのが晴英でした。晴英は天文21(1552)年、大内氏の祖先伝承にのっとって船で多々良浜(現在の防府市)に上陸し、山口へ(※5)。やがて将軍・足利義輝(あしかが よしてる)から正式に当主として認められ、翌年1月には将軍の名の一字「義」を賜って義長に改名します(※6)
義長は豊後国にいたときからキリスト教の宣教師と交流があり、宣教師からは「善意の若者」と評されていました(※7)。大内氏当主となると、宣教師に便宜を与えると約束していた(※8)通り、布教の拠点を与え、天文21(1552)年12月には山口で、宣教師らによって日本で初めて降誕祭(クリスマス)を祝う歌ミサが行われています(※9)

えっ“偽主”!? 後の歴史観が影響して…

しかし義長の治世は長く続きませんでした。天文22(1553)年10月には、大内氏に従っていた津和野(現在の島根県津和野町)の吉見(よしみ)氏(※10)に反旗を翻されます。それを受け、陶晴賢も義長も出陣。その津和野城攻めに苦戦していた最中の翌年5月、やはり大内氏に従っていた安芸国(現在の広島県西部)の武将・毛利元就(もうり もとなり)に離反され、広島湾頭の諸城を占領されます。
義長は津和野の吉見氏と急ぎ講和。陶晴賢は元就を討つため、弘治元(1555)年9月、安芸国厳島へ大内氏重臣・弘中(ひろなか)氏らと渡ります(※11)。そのとき義長自身は山口におり、10月3日、厳島の戦いの結果が届かぬ中、弘中氏の妻を思い遣り、手紙を書きます。「心配で気が重いことでしょう。私の心中も同じです。そのうちに良い知らせがあるでしょう」…。しかしまさにその日、弘中氏は自刃し、晴賢もすでにこの世を去っていました(※12)
厳島の戦いを機に、毛利氏の周防国(現在の山口県東部)侵攻が刻々と進み、大内方は追い詰められていきます。義長は弘治3(1557)年3月、山口を離れ、勝山城(現在の下関市)へ。勝山城は防御に優れた山城で、義長らは毛利方を苦戦させます。しかしやがて落城寸前となり、ついに4月3日ごろ、義長は長福寺(現在の功山寺)で自刃。ここに大内氏は滅亡したのでした。
正式な大内氏当主だった義長を、当主としない見方が生じたのには、後の毛利氏の歴史観が影響しています。陶氏らによる大内義隆へのクーデターの際、実は毛利氏も陶晴賢らに同意していました(※13)。ところがやがて毛利氏は大内義長・陶晴賢と断交し、安芸国で挙兵。毛利氏自らもその行為を直後には「現形(げんぎょう)」、つまり大内義長・陶晴賢への裏切りと記していました(※14)。しかし江戸時代、毛利氏を藩主とする萩藩で歴史観が形作られていく中、毛利氏は、もともと陶晴賢に「弑逆(しぎゃく。しいぎゃく)の天誅を行おう(※15)」と思っており、そのため「交りを断って義旗を揚げた(※16)」と変わります。さらにはやがて、義長にも罪はあり、大内氏の系図に加えるのは誤りで、義長をもって大内氏滅亡ではないとする見方(※17)や、偽主とする見方も生じました。
時を経て現在、義長は改めて正式な当主と捉えられるようになってきました。200年余りにわたって本州西端の山口を本拠に、西国一の力を誇った大内氏。最後の当主が自刃し、新たな時代が始まった4月が、今年ももうすぐやってきます。
「瑠璃光寺五重塔」の写真
「瑠璃光寺五重塔」の写真

「瑠璃光寺五重塔」(山口市)。国宝。14世紀末、大内義弘(よしひろ)は最高権力者だった足利義満(よしみつ)に対して挙兵し、敗死。この五重塔は義弘の供養塔として嘉吉2(1442年)ごろ建立された。屋根は檜皮葺で、その曲線が美しく、大内氏の文化を代表する優美な塔として知られる
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「瑠璃光寺五重塔」(山口市)。国宝。14世紀末、大内義弘(よしひろ)は最高権力者だった足利義満(よしみつ)に対して挙兵し、敗死。この五重塔は義弘の供養塔として嘉吉2(1442年)ごろ建立された。屋根は檜皮葺で、その曲線が美しく、大内氏の文化を代表する優美な塔として知られる
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「大寧寺(長門市深川)」(山口県文書館蔵)の古写真
「大寧寺(長門市深川)」(山口県文書館蔵)の古写真

古写真「大寧寺(長門市深川)」(山口県文書館蔵)。撮影年不明。クーデターの際、大内義隆はこの寺で自刃。義長は兵火を被った寺の復興に着手したといい、引き続き毛利氏が復興。陶氏と姻戚関係にあった益田(ますだ)氏が山門を寄進し、毛利氏は義隆三十三回忌を行った。後に山門は焼失し、再建されたが明治時代に倒壊し、礎石(写真手前)が現在も残る。寺の背後に義隆らの墓所がある
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古写真「大寧寺(長門市深川)」(山口県文書館蔵)。撮影年不明。クーデターの際、大内義隆はこの寺で自刃。義長は兵火を被った寺の復興に着手したといい、引き続き毛利氏が復興。陶氏と姻戚関係にあった益田(ますだ)氏が山門を寄進し、毛利氏は義隆三十三回忌を行った。後に山門は焼失し、再建されたが明治時代に倒壊し、礎石(写真手前)が現在も残る。寺の背後に義隆らの墓所がある
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「大内義長書状」(山内家文書 山口県文書館蔵)の写真
「大内義長書状」(山内家文書 山口県文書館蔵)の写真

「大内義長書状」(山内家文書 山口県文書館蔵)。毛利氏は義長を擁して陶晴賢を討ちたいと考え、義長と晴賢の仲を裂こうと画策した。この書状は天文23(1554)年5月、毛利氏が大内氏・陶氏に対して挙兵した約半月後、義長が、疑心暗鬼になった晴賢に、裏切ろうとする心はないことを誓ったもの
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「大内義長書状」(山内家文書 山口県文書館蔵)。毛利氏は義長を擁して陶晴賢を討ちたいと考え、義長と晴賢の仲を裂こうと画策した。この書状は天文23(1554)年5月、毛利氏が大内氏・陶氏に対して挙兵した約半月後、義長が、疑心暗鬼になった晴賢に、裏切ろうとする心はないことを誓ったもの
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「弾正糸桜」(周南市鹿野総合支所提供)の写真
「弾正糸桜」(周南市鹿野総合支所提供)の写真

「弾正糸桜」(周南市鹿野総合支所提供)。周南市鹿野総合支所のそば、陶氏の有力家臣・江良(えら)氏(弾正忠)の居館跡と伝わる地にある。厳島の戦い後、毛利氏の周防国侵攻が進む中、江良氏は須々万城(周南市)を守って激しく抵抗したが、最終的に毛利氏に下った。なお、桜の開花は例年4月初旬から中旬まで
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「弾正糸桜」(周南市鹿野総合支所提供)。周南市鹿野総合支所のそば、陶氏の有力家臣・江良(えら)氏(弾正忠)の居館跡と伝わる地にある。厳島の戦い後、毛利氏の周防国侵攻が進む中、江良氏は須々万城(周南市)を守って激しく抵抗したが、最終的に毛利氏に下った。なお、桜の開花は例年4月初旬から中旬まで
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「勝山城跡遠景」(下関市教育委員会提供)の写真
「勝山城跡遠景」(下関市教育委員会提供)の写真

「勝山城跡遠景」(下関市教育委員会提供)。右奥の山が、勝山城があった山。義長は重臣の内藤隆世(ないとう たかよ)らと共に山口を逃れ、勝山城に籠城。防御に優れた山城で、毛利方を苦しめた。その後、義長は長福寺(現在の功山寺)へ
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「勝山城跡遠景」(下関市教育委員会提供)。右奥の山が、勝山城があった山。義長は重臣の内藤隆世(ないとう たかよ)らと共に山口を逃れ、勝山城に籠城。防御に優れた山城で、毛利方を苦しめた。その後、義長は長福寺(現在の功山寺)へ
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「大内義長の墓と伝わる宝篋印塔」(下関市)の写真
「大内義長の墓と伝わる宝篋印塔」(下関市)の写真

「大内義長の墓と伝わる宝篋印塔」(下関市)。功山寺仏殿の裏、墓地の一角にある。江戸時代にはすでに伝承となり、確かに義長の墓か、分からなくなっていた。江戸時代中期の「新裁軍記」では、義長十七回忌に当たって元就の孫・輝元(てるもと)から長福寺(現在の功山寺)に米銭が渡されていることから、やはりここが埋葬の地、としている
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「大内義長の墓と伝わる宝篋印塔」(下関市)。功山寺仏殿の裏、墓地の一角にある。江戸時代にはすでに伝承となり、確かに義長の墓か、分からなくなっていた。江戸時代中期の「新裁軍記」では、義長十七回忌に当たって元就の孫・輝元(てるもと)から長福寺(現在の功山寺)に米銭が渡されていることから、やはりここが埋葬の地、としている
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  1. クーデター時の名は陶隆房(たかふさ)。おもしろ山口学「本当に逆臣?! 陶晴賢の虚像。そして今」参照。本文※1へ戻る
  2. おもしろ山口学「大内義隆の栄華と悲劇 第1回 文書から浮かぶ大内義隆の人物像」参照。本文※2へ戻る
  3. 他にも諸説がある。本文※3へ戻る
  4. 養子縁組解消の恥をそそぎたいという願文を宇佐宮(宇佐八幡宮)に納めた。大分県史料刊行会『大分県史料 第24』。本文※4へ戻る
  5. 大内氏の祖とされる百済国の琳聖太子(りんしょうたいし)は多々良浜に上陸したとされる。海路を勧めたのは兄・宗麟。本文※5へ戻る
  6. 東京大学出版会『大日本古文書 家わけ第二十一 蜷川家文書之三』。本文※6へ戻る
  7. 「フロイス日本史」『山口県史料 中世編 上』。本文※7へ戻る
  8. 「聖フランシスコ・ザビエル全書簡」『山口市史 史料編 大内文化』。本文※8へ戻る
  9. 「フロイス日本史」『山口県史料 中世編 上』。本文※9へ戻る
  10. 吉見正頼(よしみ まさより)。正室は大内義隆の姉。本文※10へ戻る
  11. 弘中隆兼(たかかね)。おもしろ山口学「大内氏・陶氏VS毛利氏 厳島の戦い 第1回 兵力差の真実と、手紙が残した真実」「第2回 陶晴賢らの渡海と、渡海に反対した弘中隆兼の最期」参照。本文※11へ戻る
  12. おもしろ山口学「厳島の戦い-大内氏重臣・弘中隆兼 最後の手紙-」参照。本文※12へ戻る
  13. おもしろ山口学「大内義隆の栄華と悲劇 第2回 重臣らによるクーデターと毛利元就」参照。本文※13へ戻る
  14. その後、大内氏・陶氏と毛利氏が敵味方に分かれる「防芸引分」と記すようになった。本文※14へ戻る
  15. 江戸時代中期、萩藩士・永田政純(ながた まさずみ)がまとめた「新裁軍記」による。なお、弑逆とは、君主や父を殺害すること。天誅とは、天に代わって罰を与えること。本文※15へ戻る
  16. 「新裁軍記」による。義旗とは、正義のための戦いに揚げる旗。本文※16へ戻る
  17. 近藤清石『大内氏実録』。御薗生翁甫『大内氏史研究』では「偽主」とする。本文※17へ戻る

下関市立歴史博物館 企画展「『英雄』の素顔-武将たちの虚像と実像-」

「謀略家」のイメージが広まっている毛利元就など、後に英雄とされた武将たちについて、物語や伝承で語られる姿を紹介するとともに、信頼のおける資料から実際の姿に迫る展示です。
開催期間 4月2日(日曜日)まで

毛利博物館 毛利元就郡山入城500年記念 企画展「元就入城」

元就が安芸国の郡山城(現在の広島県安芸高田市)に入城して今年で500年。それを記念し、毛利家伝来の貴重な史料を通して、大江広元(おおえのひろもと)から元就までの毛利家の歴史を紹介する企画展です。
開催期間 4月22日(土曜日)から5月28日(日曜日)まで

参考文献