トップページ > 2022年10月28日 おもしろ山口学
おもしろ山口学ロゴ
 (左)「長門峡絶勝金郷出合写真」(山口県文書館蔵 雨村家文書) (右)「長門峡丁字川付近の紅葉風景」(山口市教育委員会蔵)

(左)「長門峡絶勝金郷(かなごう)出合写真」(山口県文書館蔵 雨村家文書)。撮影年不明の古写真。白黒写真に色が付けられている。現在の遊歩道沿いではなく、阿武川と支流・蔵目喜川の合流地点。(右)「長門峡丁字川付近の紅葉風景」。近年の撮影(山口市教育委員会蔵)

国名勝指定100周年!! ガントレットら異国人や高島北海が愛した「長門峡」-モスト ビユチフル スポット-

山口市阿東地域と萩市川上地域にまたがる「長門峡」。来年3月、国名勝指定100周年を迎えます。
その美しさを世に広めた多くの“恩人”の中でも、E.ガントレットと高島北海を中心に紹介します。
阿武川上流の「長門峡(ちょうもんきょう)」。大正12(1923)年に国の名勝に指定され、来年3月、100周年を迎えます。実はかつては有名な景勝地ではなく、長門峡の名もありませんでした。どういう経緯で国の名勝となったのでしょうか。
その渓谷が知られるようになったきっかけとして、大きく二つのことがあります。一つは明治41(1908)年、阿武川に水力発電が計画されたことでした。計画したのは後に山口町長となる実業家・河北勘七(かわきた かんしち)(※1)ら。実地検分の際に撮影された写真を通して、渓谷は世に知られることになりました。
もう一つは、英国王立地学協会員で山口高等商業学校(※2)の教師だったエドワード・ガントレット(※3)による講演です。ガントレットは「秋芳洞(あきよしどう)(滝穴)(※4)」の紹介などで有名な人物。自然探勝が趣味で、山口に着任した翌年から阿武川上流の渓谷を度々探勝していました。大正元(1912)年、滝穴について防長教育会総会で講演を行った際、最後に阿武川上流の渓谷を次のように絶賛します。
「私はまだこの種類の景色でこれ以上のところを見たことがありません」「入口から十丁ほど行くと岩の絶壁の間を流れるきれいな渓流が始まります。春の五月ころか秋の紅葉のころのそこの景色は何とも形容はできません」「この景色は耶馬渓(やばけい)(※5)以上であります」(※6)。講演の内容は新聞に連載され、その渓谷が注目される大きなきっかけとなりました。また、ガントレットは同僚の外国人も現地へ誘い、その一人は山口県における“モスト ビユチフル スポット(most beautiful spot)”だと書き残しています(※7)

「雄大で武人的」「峡谷の美景としては日本一」

大正6(1917)年、現在のJR山口線が山口駅から延伸され、渓谷の阿東地域の入り口・御堂原(みどうばら)に近い篠目(しのめ)駅が開業します。それに合わせ、防長新聞に渓谷の紀行文が連載されて話題に。鉄道は翌年、三谷駅まで延伸されます。
渓谷の評価に決定的な影響を与えたのは大正9(1920)年、陸軍中将で男爵、貴族議員でもあった山根武亮(やまね たけすけ)(※8)と、日本画家の重鎮・高島北海(たかしま ほっかい)(※9)による探勝でした。二人は萩の藩校「明倫館」の同窓生。北海はかつて明治政府の工部省に勤めていたほか、日本人のみによる最初の広域地質図(※10)「山口県地質分色図(※11)」を作成するなど地質学や森林植物学の専門家でもありました。フランス留学中には、後のアールヌーヴォーの担い手エミール・ガレに影響を与えたことでも有名です。
二人は“長門耶馬渓”と呼ばれるようになっていた渓谷を、生雲渓(せいうんけい)と一度は名付けますが、探勝後改めて「長門峡」と命名(※12)。また、北海は「凝灰岩の耶馬渓に比べて火成岩の生雲渓(長門峡)は雄大で武人的」「峡谷の美景としては日本一」(※13)と絶賛します。長門峡を描いた作品も制作し、160点を販売。売り上げは地元で設立された長門峡保勝会に寄付され、探勝路の建設資金に用いられました。さらに北海は長門峡についての学術的な価値を公表(※14)。その後、地質学の権威が相次いで現地を訪れ、その多くに北海が同行しました。
大正10(1921)年10月・11月には紅葉狩りに合わせ、長門峡入り口近くに仮乗降駅を設置(※15)。景勝地としての名声が高まる中、長門峡は2年後、国の名勝として指定されます。そしてその後も北海は、県内の名勝や天然記念物の国指定に関わっていきました。
美や価値を見出す人、伝える人、親しめるものにする人がいて、人々が動き、地域の宝は輝いていく。100年前の歩みを振り返ると、多くの先人の思いや行動によって私たちが今、長門峡を楽しめることに気付かされます。
「絵はがき 長門峡 長門峡の驛路を峡谷へと探勝の道をとれば丁字川畔飯の山より勝景はひらけて」(山口県文書館蔵)の写真
「絵はがき 長門峡 長門峡の驛路を峡谷へと探勝の道をとれば丁字川畔飯の山より勝景はひらけて」(山口県文書館蔵)の写真

「絵はがき 長門峡 長門峡の驛路を峡谷へと探勝の道をとれば丁字川畔飯の山より勝景はひらけて」(山口県文書館蔵)。戦前の絵はがき。現在の道の駅 長門峡「くんくのだいち」のすぐそばの遊歩道入口。中央の岩山にある「長・門・峡」の石板の字は山根武亮の筆によるものという。左の大正12(1923)年建立の石碑には、山根武亮と高島北海による命名や、北海の寄付のことなどが記されている。石板や石碑は現在も同地にある
※Escキーで戻ります。

「絵はがき 長門峡 長門峡の驛路を峡谷へと探勝の道をとれば丁字川畔飯の山より勝景はひらけて」(山口県文書館蔵)。戦前の絵はがき。現在の道の駅 長門峡「くんくのだいち」のすぐそばの遊歩道入口。中央の岩山にある「長・門・峡」の石板の字は山根武亮の筆によるものという。左の大正12(1923)年建立の石碑には、山根武亮と高島北海による命名や、北海の寄付のことなどが記されている。石板や石碑は現在も同地にある
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

「絵はがき 山口県の奇勝長門峡」(猿渓大瀑)(山口県文書館蔵)の写真
「絵はがき 山口県の奇勝長門峡」(猿渓大瀑)(山口県文書館蔵)の写真

「絵はがき 山口県の奇勝長門峡」(猿渓大瀑)(山口県文書館蔵)。戦前の絵はがき。長門峡の中で「猿渓大瀑(金郷渓(こんごうけい))」などと呼ばれる地。この絵はがきには「神秘の幽境」とある。現在の遊歩道沿いではなく、支流・蔵目喜川の奥深い地にあり、案内者がいなければ行くのは難しい
※Escキーで戻ります。

「絵はがき 山口県の奇勝長門峡」(猿渓大瀑)(山口県文書館蔵)。戦前の絵はがき。長門峡の中で「猿渓大瀑(金郷渓(こんごうけい))」などと呼ばれる地。この絵はがきには「神秘の幽境」とある。現在の遊歩道沿いではなく、支流・蔵目喜川の奥深い地にあり、案内者がいなければ行くのは難しい
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

高島北海筆「長門峡大瀑図」(部分)(山口市歴史民俗資料館蔵)の写真
高島北海筆「長門峡大瀑図」(山口市歴史民俗資料館蔵)の写真

高島北海筆「長門峡大瀑図」(山口市歴史民俗資料館蔵)。絵の左上には「長門峡支流漣渓第二大瀑 大正辛酉新春七十二翁北海」とあり、北海が初めて長門峡を探勝した年の翌年、大正10(1921)年72歳のときに制作された作品と分かる
※Escキーで戻ります。

高島北海筆「長門峡大瀑図」(部分)(山口市歴史民俗資料館蔵)。絵の左上には「長門峡支流漣渓第二大瀑 大正辛酉新春七十二翁北海」とあり、北海が初めて長門峡を探勝した年の翌年、大正10(1921)年72歳のときに制作された作品と分かる
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

「高島北海、長門峡探勝時」 の古写真(下関市立美術館蔵)
「高島北海、長門峡探勝時」 の古写真(下関市立美術館蔵)

「高島北海、長門峡探勝時」の古写真(下関市立美術館蔵)。高島北海と山根武亮が初めて長門峡を探勝したときの記念写真。後列右が武亮、隣が北海
※Escキーで戻ります。

「高島北海、長門峡探勝時」の古写真(下関市立美術館蔵)。高島北海と山根武亮が初めて長門峡を探勝したときの記念写真。後列右が武亮、隣が北海
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

「津和野線全通記念絵はがき 長門峡第三魚切・田代隧道」(山口県文書館蔵 三村家文書)の写真
「津和野線全通記念絵はがき 長門峡第三魚切・田代隧道」(山口県文書館蔵 三村家文書)の写真

「津和野線全通記念絵はがき 長門峡第三魚切・田代隧道」(山口県文書館蔵 三村家文書)。現在のJR山口線が津和野駅まで延伸され、大正11(1922)年8月に「津和野線」として全通したときの記念絵はがき。長門峡の名所の写真が使われている。新山口(旧 小郡)駅-津和野駅間は今年が開通100周年
※Escキーで戻ります。

「津和野線全通記念絵はがき 長門峡第三魚切・田代隧道」(山口県文書館蔵 三村家文書)。現在のJR山口線が津和野駅まで延伸され、大正11(1922)年8月に「津和野線」として全通したときの記念絵はがき。長門峡の名所の写真が使われている。新山口(旧 小郡)駅-津和野駅間は今年が開通100周年
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

「静寂の秋」(NPOあとう 提供)の写真
「静寂の秋」(NPOあとう 提供)の写真

「静寂の秋」(NPOあとう 提供)。現在の長門峡の秋景色
※Escキーで戻ります。

「静寂の秋」(NPOあとう 提供)。現在の長門峡の秋景色
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

  1. 岡十郎らと日本遠洋漁業株式会社を創立し、小野田セメント会社の社長を経て、大正11(1922)年、山口町長に。父は萩藩士・河北一(はじめ)。おもしろ山口学「殿様の小姓が見た明治維新」参照。本文※1へ戻る
  2. 現在の山口大学。 本文※2へ戻る
  3. 妻・恒(つね)の弟は作曲家・山田耕筰(やまだ こうさく)。おもしろ山口学「特別天然記念物 秋芳洞 【第3回】未知の世界への挑戦者 E・ガントレット」参照。本文※3へ戻る
  4. 秋芳洞の命名は大正15(1926)年の皇太子(後の昭和天皇)による探勝のとき。おもしろ山口学「『秋芳洞』の巨大空間はどうやって生まれたの?」参照。本文※4へ戻る
  5. 大分県の山国川流域一帯の景勝地。大正12 (1923)年に国の名勝に指定。本文※5へ戻る
  6. 『E.ガントレット氏と山口県』 1956。本文※6へ戻る
  7. アメリカ人の教師モンクリーフ。防長新聞社主筆・原田豊次郎の講演録によれば、神戸で印刷された小冊子に記載されている。 本文※7へ戻る
  8. 日露戦争で活躍し、金鵄(きんし)勲章を受章。鉄道敷設に大きな影響力を持っていた。淺川均「長門峡が顕彰されたころ-大正時代の名勝指定の向こうに-」2022。本文※8へ戻る
  9. 下関市にある国指定名勝及び天然記念物「石柱渓」も北海が命名。「須佐湾」の国指定名勝及び天然記念物にも尽力。本文※9へ戻る
  10. 金折裕司「高島北海と日本最初の広域地質図」2012。本文※10へ戻る
  11. 山口県の依頼を受け、明治11(1878)年2月、地質説明書「山口県地質図説」と共に完成。山口県文書館蔵。本文※11へ戻る
  12. 上流が生雲(いくも)村(当時)にあるので生雲渓として新聞に発表。しかし篠生(しのぶ)・生雲・川上村にまたがるため不公平との意見があり、長門峡とした。金折裕司『ジオパークの開祖 高島北海-若き日にみた夢の実現-』2016。本文※12へ戻る
  13. 淺川均「長門峡が顕彰されたころ-大正時代の名勝指定の向こうに-」2022。本文※13へ戻る
  14. 講演は高島北海述「長門峡ノ五大特色并ニ丁字川」として長門峡保勝会が発行。本文※14へ戻る
  15. 後に正式な駅に昇格。本文※15へ戻る

阿東おでかけクイズラリー

長門峡が令和5(2023)年3月、国指定名勝100周年を迎えることから、山口市阿東地域にある三つの国指定名勝である長門峡、常徳寺庭園、徳佐(サクラ)などを巡るクイズラリーを開催中です。長門峡、常徳寺庭園、徳佐(徳佐八幡宮)、道の駅願成就温泉の4カ所に設置されたクイズを解いて、正解した人の中から抽選で5人に阿東和牛のお肉がプレゼントされます。
期間 2023年3月12日(日曜日)まで
お問い合わせ先 山口市教育委員会文化財保護課

参考文献