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(左)「岩国城平面図」(岩国城部分)(岩国徴古館蔵)、(右)岩国城 模擬天守の写真

(左)「岩国城平面図」(岩国城部分)(岩国徴古館蔵)。幕末の慶応年間(1865-1867年)ごろの作製。赤い文字や矢印は、このおもしろ山口学に際して記入。(右)岩国城 模擬天守。江戸時代の「伝岩国城断面図」を基に昭和37(1962)年、本来の位置より約50メートル南に復元

破却?! 失われた岩国城の真実

横山の山上に築かれた岩国城。江戸時代初期に破却されたものの、昭和時代に再建された模擬天守がそびえ、遺構も豊かにあり、ロープウエーで気軽に行くこともできます。岩国城に秘められた歴史を紹介します。
関ヶ原の戦いの後、吉川広家(きっかわ ひろいえ)が横山の山上に築いた「岩国城」。江戸時代初期に破却され、現在は昭和37(1962)年に再建された模擬天守がそびえるのみです。しかし遺構は豊かにあり、その縄張り(城の基本設計)などからは吉川氏のあまり知られざる歴史が見えてきます。
かつて吉川氏は安芸国(現在の広島県西部)の山間部(※1)を本拠とし、安土桃山時代には石垣の築造に特徴的な土木技術(※2)を有していました。やがて広家は当時広まりつつあった新しい土木技術や、枡形虎口(ますがたこぐち)(※3)や総石垣(※4)といった新しい城郭の構造を取り入れるようになります。秀吉の命で移った出雲国(現在の島根県東部)では、そうした構造を取り入れた大規模な城づくりに着手(※5)。江戸時代に入ってからも慶長11(1606)年の江戸城改修で、その総責任者・藤堂高虎(とうどう たかとら)(※6)から本丸の石垣工事の一部を任されたほど、吉川氏の技術力は高く評価されていました(※7)

破却から250年。ひそかに守り続け、再び軍事拠点に?!

そんな広家が江戸時代、岩国を本拠とし、城地として選定したのが、山陽道に近く、錦川の水運も生かせる横山の地でした。広家自らが岩国城の縄張りを決定。慶長8(1603)年から城づくりに着手します。広家から工事担当の家臣への手紙には「天守は北東から南西に続く山の尾根方向に建てること」といった細やかな指示が記され、広家は領主でありながら、技術者としての顔も持っていたことが分かります。
その岩国城の縄張りは、本丸・二ノ丸・北ノ丸・水ノ手(※8)の曲輪(くるわ)群の主に4区画から成っていました。本丸には四重六階の天守(※9)がそびえ、櫓門(やぐらもん)(※10)や三階建ての櫓、枡形虎口など(※11)を巡らせて防御。二ノ丸には出丸(※12)を張り出し、そこに枡形虎口を配置。北ノ丸には二つの虎口を設け、そのうち一つは敵を挟み撃ちできるよう、二ノ丸の虎口と向き合う形で配置。また、関ケ原の戦い後のまだ不安定な情勢下で築かれた岩国城は、本丸のすぐそばに大規模な空堀(からぼり)(※13)を築くなど、軍事拠点の色合いが濃い城でした(※14)
やがて岩国城は幕府の一国一城令により、慶長13(1608)年の工事完了からわずか7年で破却へ。ただしその時点では、建造物の破壊のみでした。しかし島原の乱(※15)後の寛永15(1638)年、幕府から石垣についても破却を命じられます。広家はそれに応じますが、実は壊されなかった石垣が各所に残されました。そのことから広家が破却に消極的で、最低限の破壊に留めたことがうかがえます。
破却から約250年後の幕末、その地に再び動きが生じます。それは長州軍と幕府方との「幕長戦争」開戦の前月である、慶応2(1866)年5月のこと。幕末の領主・吉川経幹(つねまさ)は「御城山」の上に陣屋(※16)を築造するよう家臣に命じます。つまり関ケ原の戦い後、広家が有事に備えて築き、破却後もひそかに守り続けた軍事拠点は、時を経て実際にその役割を担うことになったのです(※17)
平成6(1994)年、雑木に覆われた下に巨石などが小山のようになっていた、天守台の発掘調査が行われました。その結果、天守台の石垣は面によって異なる石工集団が担当したこと、近世城郭の特徴である石垣の反りが若干見られることなどが分かりました。
失われた岩国城からは、吉川氏が誇った技術力の変遷と、歴史に翻弄された吉川氏が持ち続けた危機意識が伝わってきます。
「御城山平図」(部分)(岩国徴古館蔵)の写真
「御城山平図」(部分)(岩国徴古館蔵)の写真

「御城山平図」(部分)(岩国徴古館蔵)。天明末年ごろ(1780年代後半)の作製。この画像で右上に岩国城、山麓に御土居、岩国城から尾根伝いの左端に天狗堂が描かれている。天狗堂周辺が築城の際の石切り場。赤い文字は、このおもしろ山口学に際して記入
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「御城山平図」(部分)(岩国徴古館蔵)。天明末年ごろ(1780年代後半)の作製。この画像で右上に岩国城、山麓に御土居、岩国城から尾根伝いの左端に天狗堂が描かれている。天狗堂周辺が築城の際の石切り場。赤い文字や矢印は、このおもしろ山口学に際して記入
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「岩国城平面図」(部分)(岩国徴古館蔵)の写真
「岩国城平面図」(部分)(岩国徴古館蔵)の写真

「岩国城平面図」(部分)(岩国徴古館蔵)。幕末の慶応年間(1865-1867)年ごろの作製。枡形虎口は出入り口に四角い空間を設け、敵を三方から攻撃できるようにしたもので、内枡形や外枡形がある。赤い文字や棒線は、このおもしろ山口学に際して記入
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「岩国城平面図」(部分)(岩国徴古館蔵)。幕末の慶応年間(1865-1867)年ごろの作製。枡形虎口は出入り口に四角い空間を設け、敵を三方から攻撃できるようにしたもので、内枡形や外枡形がある。赤い文字や棒線は、このおもしろ山口学に際して記入
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「岩国城平面図」(部分)(岩国徴古館蔵)の写真
「岩国城平面図」(部分)(岩国徴古館蔵)の写真

「岩国城平面図」(部分)(岩国徴古館蔵)。この絵図に記された大釣井(井戸)は現存。昭和37(1962)年に復元された模擬天守は、この絵図の天守の位置から約50メートル南にある。赤い文字や棒線、白い文字は、このおもしろ山口学に際して記入
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「岩国城平面図」(部分)(岩国徴古館蔵)。この絵図に記された大釣井(井戸)は現存。昭和37(1962)年に復元された模擬天守は、この絵図の天守の位置から約50メートル南にある。赤い文字や棒線、白い文字は、このおもしろ山口学に際して記入
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「出丸跡」の写真
「出丸跡」の写真

「出丸跡」。二ノ丸から南へ張り出した一区画「出丸」。この出丸は、敵を引き込んで三方から攻撃できる枡形となっている
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「出丸跡」。二ノ丸から南へ張り出した一区画「出丸」。この出丸は、敵を引き込んで三方から攻撃できる枡形となっている
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「空堀跡」の写真
「空堀跡」の写真

「空堀跡」。幅約19.6メートル、深さ約7.4メートル、長さ約58.2メートルに及ぶ大規模な空堀。空堀は、敵の動きを止めるためのもの。写真中央、本丸側と北ノ丸側の土手の間。木々の葉が茂っている辺りの凹部分
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「空堀跡」。幅約19.6メートル、深さ約7.4メートル、長さ約58.2メートルに及ぶ大規模な空堀。空堀は、敵の動きを止めるためのもの。写真中央、本丸側と北ノ丸側の土手の間。木々の葉が茂っている辺りの凹部分
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復元された「旧天守台」の写真
復元された「旧天守台」の写真

復元された「旧天守台」。石垣の四方の隅角部(ぐうかくぶ)は算木積みで築かれている。平成6(1994)年の発掘調査開始時には、石垣に使われていたと思われる巨石や栗石(ぐりいし。石垣の裏側に詰める石)が小山のようになっており、その上に雑木が茂っていた
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復元された「旧天守台」。石垣の四方の隅角部(ぐうかくぶ)は算木積みで築かれている。平成6(1994)年の発掘調査開始時には、石垣に使われていたと思われる巨石や栗石(ぐりいし。石垣の裏側に詰める石)が小山のようになっており、その上に雑木が茂っていた
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  1. 現在の北広島町。本文※1へ戻る
  2. 平らな石を横積みにし、一定間隔で大きな立石を据えることで、石垣の崩壊を最低限に抑えた石積技法。高石垣には不向き。北広島町の日山城跡や万徳院跡、元春館跡などが知られる。本文※2へ戻る
  3. 虎口(城や曲輪(くるわ)の出入り口)に四角い空間を設け、敵を三方から攻撃できるようにしたもの。曲輪とは、城の区画。本文※3へ戻る
  4. 城の曲輪全体に石垣を巡らせること。総石垣の初めての城は、織田信長(おだ のぶなが)の安土城。安土城は、城の頂点に権威の象徴となる巨大な天守を築いたことでも革新的だった。本文※4へ戻る
  5. 戦国時代は尼子(あまご)氏の居城だった月山富田(がっさんとだ)城。広家は天正19(1591)年に入城し、近世城郭へ改修したと考えられている。米子城も築造したが、その完成前に岩国へ移った。本文※5へ戻る
  6. 浅井長政(あざい ながまさ)らさまざまな主に付き、羽柴秀長(はしば ひでなが)に仕えた後、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の直臣に。その死後は徳川家康(とくがわ いえやす)に仕えた。築城名人として有名。本文※6へ戻る
  7. 広家は毛利輝元(もうり てるもと)に熱望され、萩城の縄張りも担当した。本文※7へ戻る
  8. 水ノ手とは、井戸のある曲輪、あるいは城の中の水源など。本文※8へ戻る
  9. 外観は四重だが、内部では三重目と四重目が二階に分かれていた。また、三階より四階が、五階より六階が外に張り出した特徴的な構造。本文※9へ戻る
  10. 門の上に櫓を乗せた二階建ての門。櫓は城壁の上に造られた見張り場で、武器なども納めた。なお、櫓は矢倉とも書く。本文※10へ戻る
  11. 長屋状の細長い櫓「多聞櫓(たもんやぐら)」などもあった。本文※11へ戻る
  12. 張り出して設けた小さな曲輪。本文※12へ戻る
  13. 敵を阻止するため、土を掘って作った水のない堀。本文※13へ戻る
  14. 敵を阻止するため、山腹に斜面と平行に掘って作った「竪堀(たてぼり)」、石垣などを屈曲させてさまざまな方向から側面攻撃できるようにした「横矢掛(よこやがか)り」なども各所にある。本文※14へ戻る
  15. 寛永14(1637)年から翌年にかけて、肥前国(現在の佐賀県・長崎県)島原と肥後国(現在の熊本県)天草の領民が、幕府のキリシタン弾圧と島原藩の政治に対して蜂起し、原城に籠って戦った一揆。本文※15へ戻る
  16. 合戦などの際、兵が駐屯する営舎。本文※16へ戻る
  17. 陣屋が完成したかどうかは不明。安芸国との境にある小瀬川(おぜがわ)河口一帯は「芸州口の戦い」の場となったが、岩国城や城下町は戦いの場とならなかった。おもしろ山口学「城下町・岩国と幕末(後編)」「幕長戦争 第2回 芸州口の戦い」参照。本文※17へ戻る

岩国徴古館 企画展「所蔵資料からみる岩国の城」

岩国城をはじめ、岩国市内にあった室町時代・江戸時代の城や、岩国の武士ゆかりの城、江戸時代の岩国で行われた軍学研究の史料などを紹介。岩国城についての貴重な史料「御城山平図」や「伝岩国城断面図」のほか、幕末、山上に陣屋が築かれたことを伝える『岩国沿革志(小瀬口戦争私録 五)』なども展示。この企画展に合わせて、室町時代に岩国にあった山城「亀尾城」の御城印の販売も開始しています。
開催期間:7月3日(日曜日)まで

岩国城

昭和37(1962)年に再建された模擬天守で、岩国城の精密模型や、武具、甲冑などを展示。展望台からは岩国市街の眺望も楽しめます。岩国城の御城印も販売しています。

参考文献