トップページ > 2022年5月27日 おもしろ山口学
おもしろ山口学ロゴ
「旧岩国城下図(横山)」(部分)(岩国徴古館蔵)の写真

「旧岩国城下図(横山)」(部分)(岩国徴古館蔵)。「御城跡」とある地(現在の吉香神社境内)に江戸時代、吉川氏の居館があった。居館大手(正面)の土橋を渡った地(現在の岩国徴古館の敷地)には「御蔵元」があった。「ホリ(堀)」の位置は現在も変わらない。なお「二宮」家があったところに現在、岩国城ロープウエー乗り場がある

絵図から読み解く吉川氏の“城下町”岩国

昨年、国の重要文化的景観に選定された岩国城下町一帯。作製年不明の旧岩国城下図を読み解くと見えてくるその作製時期や、明治元年にようやく悲願の藩主となった吉川氏の特殊な歴史を紹介します。
五連のアーチ型の木造橋「錦帯橋(きんたいきょう)」で知られる岩国。江戸時代、吉川(きっかわ)氏の“城下町”でした。錦帯橋を渡った錦川の右岸、つまり西側が吉川氏の居館をはじめ上級武士の屋敷があったエリア。現在は吉香(きっこう)公園(※1)などが広がり、往時を想像するのは少し難しいように思いがちですが、「旧岩国城下図」と照らし合わせると、かつてを物語るものは今も豊かにあることに気付かされます。
岩国を本拠とした領主・吉川氏。その初代は毛利元就(もうり もとなり)の孫に当たる吉川広家(ひろいえ)です(※2)。関ヶ原の戦いの後、広家が毛利氏から領地を分知され、本拠としたのが岩国(※3)。広家は横山の山上に天守を備えた要害(岩国城。横山城)を、その麓に居館「御土居(おどい)(※4)」を築きます。しかし元和元(1615)年に幕府から出された一国一城令(※5)により、山頂の要害は破却。御土居のみとなりました。
旧岩国城下図は、そうした御土居などの一帯の様子が分かる絵図ですが、実はその作製年は不明です。しかしじっくり見ていくと、およその作製時期が浮かび上がってきます。

浮かび上がる作製時期と、岩国の“お殿さま”の特殊な歴史

御土居は元禄11(1698)年に御館(おたて)と改称され、その御館があったのは絵図で「御城跡」と記された地でした。そこは現在、明治18(1885)年に白山比咩(しらやまひめ)神社境内から移された吉香神社(※6)の広大な境内地に当たります。御館は三方を「ホリ(堀)」で囲まれ、その堀は現在も残ります。御館の大手(正面)は南東面。絵図では、大手から出て堀を渡るところに土橋(どばし)(※7)が描かれ、突き当りに「大腰掛」、隣に「御蔵元」とあります。御蔵元とは、行政一般を担当した役所。現在は岩国徴古館(※8)がある地です。絵図で御蔵元の角を左折したところには「昌明御殿(昌明館)」。7代領主の隠居所として寛政5(1793)年に造られたもので、現在は吉川史料館(※9)があり、昌明御殿に付属していた長屋と門が現存します。
土橋へ戻り、御蔵元の隣には「御厩(おうまや)(※10)」。その前の「ミチ(道)」を堀に沿って進むと「御作事(おさくじ)(※11)」とあります。その隣の「御屋形(おやかた)」は仙鳥館ともいい、元禄11(1698)年に5代領主の幼少期の住まいとして建てられたもの。後に吉川氏の子女の養育に利用され、弘化3(1846)年に造られた建物が現存します。御作事の裏には「養老館」。養老館は幕末の領主・吉川経幹(つねまさ)が弘化4(1847)年に設けた教育施設(藩校)で、これにより、絵図の作製は幕末以降だと分かります。
また江戸時代、一般に大名は1万石以上とされました。しかし吉川氏は6万石を領有していながら、関ケ原の戦い後の徳川家康(とくがわ いえやす)への不信などが遠因となり、幕府から大名、藩主として認められていませんでした(※12)。城主格(※13)、つまり悲願の大名、岩国藩主としてようやく認められたのは明治元(1868)年6月のこと(※14)。それによって7月、御館を岩国藩の「御城」と改称します。絵図には「御城跡」とあることから、絵図は少なくとも明治元(1868)7月以降に作製されたことが見えてきます。
加えて大きな鍵となるのが、吉川氏の墓所「御塔場」の右隣に「清泰院跡」とあることです。清泰院は現在異なる地にあり(※15)、絵図の場所にあったのは明治3(1870)年10月まででした。つまり、絵図の作製時期は、明治3(1870)年10月以降であることが判明。さらには翌年7月には岩国藩が岩国県となり、11月には岩国県が山口県に合併されて御城が完全に役割を失い(※16)、そして明治18(1885)年に御城跡へ吉香神社が移ってくるまでの間、おそらく明治初期が作製時期では、と絞り込むことができます。
往時のたたずまいを伝える旧岩国城下図。単なる古地図にとどまることなく、その作製時期や城下町・岩国の特殊な歴史まで豊かに物語ってくれます。
「旧岩国城下図(横山)」(部分)(岩国徴古館蔵)より「御蔵元」「御屋形」付近の写真
「旧岩国城下図(横山)」(部分)(岩国徴古館蔵)より「御蔵元」「御屋形」付近の写真

「旧岩国城下図(横山)」(部分)(岩国徴古館蔵)。「御蔵元」の地は現在の岩国徴古館の敷地。「御屋形」とは元禄11(1698)年に5代藩主の幼少期の住居として建てられた「仙鳥館」で、幕末の弘化3(1846)年の建物が現存する
※Escキーで戻ります。

「旧岩国城下図(横山)」(部分)(岩国徴古館蔵)。「御蔵元」の地は現在の岩国徴古館の敷地。「御屋形」とは元禄11(1698)年に5代藩主の幼少期の住居として建てられた「仙鳥館」で、幕末の弘化3(1846)年の建物が現存する
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

「旧吉川邸厩門」(国登録有形文化財)の写真
「旧吉川邸厩門」(国登録有形文化財)の写真

「旧吉川邸厩門」(国登録有形文化財)。旧岩国城下図(横山)に記された「御厩」の地にあり、現在の厩門は明治25(1892)年に旧岩国藩主・吉川経健が造ったもの
※Escキーで戻ります。

「旧吉川邸厩門」(国登録有形文化財)。旧岩国城下図(横山)に記された「御厩」の地にあり、現在の厩門は明治25(1892)年に旧岩国藩主・吉川経健(つねたけ)が造ったもの
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

「ホリ」と記した箇所のそばに描かれた土橋から「昌明御殿(昌明館)」方面を見た写真
「ホリ」と記した箇所のそばに描かれた土橋から「昌明御殿(昌明館)」方面を見た写真

絵図に赤字で「ホリ」と記した箇所のそばに描かれた土橋から「昌明御殿(昌明館)」方面を見た写真。現存する「昌明館付属屋及び門」の一部が堀の向こうに見える。昌明館の地は現在、吉川史料館。5月下旬ごろ、堀はハナショウブの名所(吉香花菖蒲園)に。武具を収納する蔵があった「蔵ノ段」もハナショウブの名所(城山花菖蒲園)
※Escキーで戻ります。

絵図に赤字で「ホリ」と記した箇所のそばに描かれた土橋から「昌明御殿(昌明館)」方面を見た写真。現存する「昌明館付属屋及び門」の一部が堀の向こうに見える。昌明館の地は現在、吉川史料館。5月下旬ごろ、堀はハナショウブの名所(吉香花菖蒲園)に。武具を収納する蔵があった「蔵ノ段」もハナショウブの名所(城山花菖蒲園)
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

「錦雲閣」(国登録有形文化財)の写真
「錦雲閣」(国登録有形文化財)の写真

「錦雲閣」(国登録有形文化財)。御城跡の南隅に、明治18(1885)年に吉香神社の絵馬堂として建てられたもの。江戸時代、その地にあった矢倉を模した造りとなっている
※Escキーで戻ります。

「錦雲閣」(国登録有形文化財)。御城跡の南隅に、明治18(1885)年に吉香神社の絵馬堂として建てられたもの。江戸時代、その地にあった矢倉を模した造りとなっている
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

「旧岩国城下図(横山)」(部分)(岩国徴古館蔵)より錦川に架かる錦帯橋の一部や川岸の松、土手などの写真
「旧岩国城下図(横山)」(部分)(岩国徴古館蔵)より錦川に架かる錦帯橋の一部や川岸の松、土手などの写真の写真

「旧岩国城下図(横山)」(部分)(岩国徴古館蔵)。錦川に架かる錦帯橋の一部や川岸の松、土手なども描かれている。錦帯橋近くに描かれた門は「乗越門」と呼ばれていた。門の先には番所があり、出入りする人々を監視・制限していた
※Escキーで戻ります。

「旧岩国城下図(横山)」(部分)(岩国徴古館蔵)。錦川に架かる錦帯橋の一部や川岸の松、土手なども描かれている。錦帯橋近くに描かれた門は「乗越門」と呼ばれていた。門の先には番所があり、出入りする人々を監視・制限していた
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

「旧岩国城下図(横山)」(部分)(岩国徴古館蔵)より洞泉寺や永興寺、御塔場(吉川家墓所)、目加田(めかだ)家住宅(国指定重要文化財)などの写真
「旧岩国城下図(横山)」(部分)(岩国徴古館蔵)より洞泉寺や永興寺、御塔場(吉川家墓所)、目加田(めかだ)家住宅(国指定重要文化財)などの写真

「旧岩国城下図(横山)」(部分)(岩国徴古館蔵)。洞泉寺や永興寺、御塔場(吉川家墓所)、目加田(めかだ)家住宅(国指定重要文化財)は現在もその地にある。目加田家住宅は18世紀中ごろの建築と考えられており、吉香公園内にある。吉香公園の東南には、吉川氏の家老の一人・香川(かがわ)家の長屋門も現存する
※Escキーで戻ります。

「旧岩国城下図(横山)」(部分)(岩国徴古館蔵)。洞泉寺や永興寺、御塔場(吉川家墓所)、目加田(めかだ)家住宅(国指定重要文化財)は現在もその地にある。目加田家住宅は18世紀中ごろの建築と考えられており、吉香公園内にある。吉香公園の東南には、吉川氏の家老の一人・香川(かがわ)家の長屋門も現存する
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

  1. 旧山口県立岩国高等学校跡に造られた広大な公園。江戸時代、上級家臣らの武家屋敷が立ち並んでいた。本文※1へ戻る
  2. 元就の次男・元春(もとはる)の三男。父の元春は安芸国の吉川家を継ぎ、小早川(こばやかわ)家を継いだ元就の三男・隆景(たかかげ)と共に毛利氏を支えた。本文※2へ戻る
  3. 関ヶ原の戦いで毛利氏らの西軍敗退の理由の一つは、吉川広家が東軍に内通し、家康に毛利氏の領地保全を約束させ、当日、毛利軍の参戦を阻止したこととされる。しかし、戦いの後、毛利氏の領地は大きく削減された。本文※3へ戻る
  4. 土居とは、防御のために土塁などで囲んだ屋敷のこと。外周に堀があった場合も多い。本文※4へ戻る
  5. 大坂夏の陣の後、幕府が大名の軍事力抑制のため、居城以外の領内の城の破却を命じたもの。吉川氏は本藩(萩藩)から、長府藩の串崎城(下関市)も破却するので岩国の城も取り壊すようにと命じられた。本文※5へ戻る
  6. 吉川氏歴代当主を祀(まつ)る。江戸時代は白山比咩神社(絵図では白山社)の境内にあり、「治功社」など、吉川氏当主を祀る複数の神社が合祀され、吉香神社となった。現在の本殿は享保13(1728)年に造営されたもので国の重要文化財。本文※6へ戻る
  7. 掘り残して、堀を渡る橋とした通路部分。城郭用語。本文※7へ戻る
  8. 吉川報效会(ほうこうかい)によって昭和20(1945)年に造られた博物館。その後、岩国市に寄付。江戸時代などの貴重な史料などを収蔵・展示している。本文※8へ戻る
  9. 吉川家に伝来する、貴重な史料、美術工芸品を収蔵・展示している。本文※9へ戻る
  10. 明治25(1892)年に旧岩国藩主・吉川経健(つねたけ)が造った「旧吉川邸厩門」が現存。本文※10へ戻る
  11. 建設関係の役所や細工場、材木置場。本文※11へ戻る
  12. 広家は関ヶ原の戦い後、徳川家康(とくがわ いえやす)から江戸への参勤の内命を受けても、病気などを理由に赴かなかった。それが原因となり、その後、吉川氏は大名として認められる格式を得る機会を逸し、他の支藩主(長府・徳山・清末藩主)と異なり、毛利家の家来として扱われるようになった。本文※12へ戻る
  13. 無城でも城主と同一の待遇を受ける大名。本文※13へ戻る
  14. 幕末、吉川氏は窮地に陥った本藩(萩藩)を助け、萩藩主からは他の支藩主と同じ待遇にすると告げられた。これにより、やがて大名として公認されることになった。藩主となった吉川経幹は実はそのときすでに亡くなっていたが、死は伏せられていた。本文※14へ戻る
  15. 廃寺となった後、竜護寺と合寺し、川西地区にある。竜護寺は幕末、禁門の変の責任を負った萩藩の三家老の一人、福原元僴(ふくばら もとたけ)が自刃した寺。おもしろ山口学「『禁門の変』の責任を負った三家老の一人、益田親施(ますだ ちかのぶ)」参照。本文※15へ戻る
  16. 御城は岩国藩が岩国県となった際、岩国県庁に。11月、岩国県が山口・岩国・豊浦・清末の4県は合併して山口県となると、その地は競売処分された。本文※16へ戻る

岩国徴古館 企画展「所蔵資料からみる岩国の城」

近年、全国的に城への関心が高まる中、岩国ゆかりの城郭資料を展示する企画展です。岩国城をはじめ、岩国市内にあった室町時代・江戸時代の城や、岩国の武士ゆかりの城、江戸時代の岩国で行われた軍学研究の史料などを紹介。「御城山平図」や「御館平面図」なども展示されます。この企画展に合わせて、室町時代に岩国を治めた弘中氏の居城「亀尾城」の御城印の販売も開始しています。なお、「旧岩国城下図」を掲載したリーフレットも岩国徴古館で販売されています。
開催期間:7月3日(日曜日)まで

参考文献