トップページ > 2022年1月28日 おもしろ山口学
おもしろ山口学ロゴ
「御国廻御行程記」(部分)(山口県文書館蔵)より川棚温泉および周辺部分の写真

「御国廻御行程記」(山口県文書館蔵)より川棚温泉および周辺部分。江戸時代の川棚温泉の様子が描かれている

殿さまも井上馨も愛した川棚温泉

江戸時代には長府藩主や萩藩主が楽しみ、明治時代には井上馨も愛した川棚温泉。
かつての町の様子を江戸時代の絵図を通して紹介します。
下関市豊浦町にある川棚温泉。江戸時代は長府藩領で湯谷(ゆや)とも呼ばれ、長府藩主や、本藩である萩藩の藩主も度々訪れた温泉でした。当時の様子は、6代萩藩主・毛利宗広(もうり むねひろ)の御国廻り(※1)の道筋を描いた、寛保2(1742)年作の街道絵図「御国廻御行程記(おくにまわりおんこうていき)」で知ることができます。
この街道絵図には、太い帯状の線が南から北へ蛇行しながら描かれています。それは「湯谷往還」と呼ばれた川棚温泉への道。主要な街道ではありませんでした。御国廻りで用いられたのは基本的には、主要な街道。しかし、この辺りの主要な街道である「赤間関(あかまがせき)街道(※2)」は、川棚温泉を経由しない街道でした。この街道絵図に湯谷往還が描かれていることは、6代萩藩主が御国廻りの際、あえて赤間関街道を外れ、寄り道し、入浴を楽しんだことを物語ります。
この街道絵図で湯谷往還が大きく曲がり、南東からの道と合流した湯屋町(川棚温泉)の三ツ辻近くに「御高札」とあります。御高札とは、幕府や藩の御触書(おふれがき)を掲げた高札場(こうさつば)のこと。人通りの多い所に設けられるもので、三ツ辻周辺が最もにぎわっていたことが分かります。
高札場の隣には「湯明神」や「湯や」が描かれています。その湯やは「町の湯(※3)」と呼ばれ、一定の格以上の武士や寺社関係者が入浴した温泉で、藩主専用の御殿湯(ごてんゆ)も設けられていました。その湯やの南にもう一軒、湯やがあり、そちらは「無田の湯(※4)」と呼ばれ、庶民が利用していました。

青龍伝説にちなんで命名した井上馨

無田の湯から南へ進むと、古刹・妙青寺(※5)が描かれています。この街道絵図には「御本陣」とも記され、萩藩主は妙青寺に宿泊したことが分かります。また、長府藩主は御茶屋(※6)を湯屋町に設けており、御茶屋は町の湯の西隣(※7)にあったと考えられています。その長府藩主とは3代藩主・毛利綱元(つなもと)。御殿湯を設けた藩主でもありました。また、入湯して病が回復したことから薬師如来に感謝し、元禄6(1693)年に薬師院も建立しており、この街道絵図には「湯ノ薬師」として記されています。
明治維新後、川棚温泉は元萩藩士で明治の元勲(げんくん)の一人として知られる井上馨(いのうえ かおる)(※8)からも愛されました。馨はリウマチの静養のため明治時代から大正時代、川棚温泉に度々滞在。馨はかつての町の湯(当時の名は鍵湯・下湯)の御殿湯で入浴し、その斜め前にあった旅館を定宿にしたといい、町の湯を「青龍泉」、無田の湯(当時の名は上湯)を「寿永泉」と命名。青龍泉の名は川棚温泉の縁起である青龍伝説(※9)に、寿永泉は川棚温泉の発見年とされるものにちなんだ名でした。
病に苦しめられていた長府藩主や井上馨も、萩藩主もあえて寄り道するほど愛した川棚温泉。今は、かつての無田の湯の地にある温泉銭湯が青龍泉の名を受け継ぎ、川棚温泉を愛する人々に親しまれ続けています。
「御国廻御行程記」(山口県文書館蔵)より川棚温泉部分の写真
「御国廻御行程記」(山口県文書館蔵)より川棚温泉部分の写真

「御国廻御行程記」(山口県文書館蔵)より川棚温泉部分。「湯屋丁」とある辺りに現在、烏山民俗資料館なども備えた「下関市川棚温泉交流センター(愛称:川棚の杜)」がある。湯明神は移転しているが近くに現存。無田の湯には現在「ぴーすふる青竜泉」がある
Escキーで戻ります。

「御国廻御行程記」(山口県文書館蔵)より川棚温泉部分。「湯屋丁」とある辺りに現在、烏山民俗資料館なども備えた「下関市川棚温泉交流センター(愛称:川棚の杜)」がある。湯明神は移転しているが近くに現存。無田の湯には現在「ぴーすふる青竜泉」がある
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

「御国廻御行程記」(山口県文書館蔵)より妙青寺周辺の写真
「御国廻御行程記」(山口県文書館蔵)より妙青寺周辺の写真

「御国廻御行程記」(山口県文書館蔵)より妙青寺周辺。妙青寺に御本陣と記され、萩藩主が妙青寺に宿泊したことが分かる。権現は青龍権現(松尾神社)。温泉の守護神である青龍と、京都の松尾(まつのお)大社から勧請した神を祀っている
Escキーで戻ります。

「御国廻御行程記」(山口県文書館蔵)より妙青寺周辺。妙青寺に御本陣と記され、萩藩主が妙青寺に宿泊したことが分かる。権現は青龍権現(松尾神社)。温泉の守護神である青龍と、京都の松尾(まつのお)大社から勧請した神を祀っている
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

絵はがき「長門川棚温泉場 下の湯」(烏山民俗資料館蔵)の写真
絵はがき「長門川棚温泉場 下の湯」(烏山民俗資料館蔵)の写真

絵はがき「長門川棚温泉場 下の湯」(烏山民俗資料館蔵)。明治時代終わりごろ。当時、まだ御殿湯(上等湯・上鍵湯)が残っており、手前の門がその入口。奥側は鍵湯(下湯)の出入口になっていた
※Escキーで戻ります。

絵はがき「長門川棚温泉場 下の湯」(烏山民俗資料館蔵)。明治時代終わりごろ。当時、まだ御殿湯(上等湯・上鍵湯)が残っており、手前の門がその入口。奥側は鍵湯(下湯)の出入口になっていた
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

絵はがき「川棚温泉 於多福屋(おたふくや)旅館(客室より厚島を望む)」(烏山民俗資料館蔵)の写真
絵はがき「川棚温泉 於多福屋(おたふくや)旅館(客室より厚島を望む)」(烏山民俗資料館蔵)の写真

絵はがき「川棚温泉 於多福屋(おたふくや)旅館(客室より厚島を望む)」(烏山民俗資料館蔵)。厚島はかつて川棚温泉に滞在した世界的ピアニスト、亡きアルフレッド・コルトーが愛した島。川棚の杜には、コルトーにちなんだコルトーホールがある
※Escキーで戻ります。

絵はがき「川棚温泉 於多福屋(おたふくや)旅館(客室より厚島を望む)」(烏山民俗資料館蔵)。厚島はかつて川棚温泉に滞在した世界的ピアニスト、亡きアルフレッド・コルトーが愛した島。川棚の杜には、コルトーにちなんだコルトーホールがある
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

青龍泉板額(烏山民俗資料館蔵)の写真
青龍泉板額(烏山民俗資料館蔵)の写真

「青龍泉板額(いたがく)」(烏山民俗資料館蔵)。井上馨は、かつての町の湯(当時の名は鍵湯・下湯)を「青龍泉」と名付け、揮毫(きごう)した。これはその扁額。青龍泉の名の左にある「世外」は、馨の号
※Escキーで戻ります。

「青龍泉板額(いたがく)」(烏山民俗資料館蔵)。井上馨は、かつての町の湯(当時の名は鍵湯・下湯)を「青龍泉」と名付け、揮毫(きごう)した。これはその扁額。青龍泉の名の左にある「世外」は、馨の号
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

絵はがき「川棚温泉青龍泉」(烏山民俗資料館蔵)の写真
絵はがき「川棚温泉青龍泉」(烏山民俗資料館蔵)の写真

絵はがき「川棚温泉青龍泉」(烏山民俗資料館蔵)。かつての町の湯の地にあった。撮影年は不明だが、青龍泉が洋館に建て替えられたのは大正12(1923)年。看板には「ひやしビール コーヒー コーチャ ココア 食パン」などとある
※Escキーで戻ります。

絵はがき「川棚温泉青龍泉」(烏山民俗資料館蔵)。かつての町の湯の地にあった。撮影年は不明だが、青龍泉が洋館に建て替えられたのは大正12(1923)年。看板には「ひやしビール コーヒー コーチャ ココア 食パン」などとある
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

  1. 代替わりした藩主が、江戸から萩藩へ初入国した後、周防国・長門国の外周をたどって領内を見回る行事。そのコースは、萩城下を出発し、石州街道を北上して石見国境の野坂に至り、山代街道、岩国往来を南下して岩国へ。岩国から山陽道を西へ進み、赤間関に至り、赤間関街道北浦道筋を北上し、萩に帰着した。本文※1へ戻る
  2. 現在の下関市と萩市を結んだ街道。美祢市を通る「中道筋」、長門市俵山を通る「北道筋」、主に日本海沿岸を通る「北浦道筋」の三つのルートがあった。本文※2へ戻る
  3. 湯坪(湯船)は四つあり、湯坪ごとに入浴料は異なっていた。現存しない。本文※3へ戻る
  4. 湯坪(湯船)は三つ。やはり湯坪ごとに入浴料は異なっていた。現存しない。本文※4へ戻る
  5. 室町時代の永享3(1431)年、戦死した大内盛見(おおうち もりはる・もりみ・もりあきら)の菩提を弔うため、当時有力な当主候補者の一人だった、おいの大内持盛(もちもり)が創建。江戸時代は長府藩主に厚く保護された。本文※5へ戻る
  6. 藩主が休息・宿泊した藩の公館。本文※6へ戻る
  7. 以前その地にあった家の門名(かどな)が「お茶屋」だったことから、その地に御茶屋があったと考えられている。本文※7へ戻る
  8. 幕末、伊藤博文(いとう ひろぶみ)・井上勝(いのうえ まさる)・遠藤謹助(えんどう きんすけ)・山尾庸三(やまお ようぞう)と共に5人で英国へ密航留学。明治時代、第一次伊藤内閣では外務大臣となるなど、大臣を歴任した。本文※8へ戻る
  9. 次のような伝説がある。かつて青龍が住む泉が大地震で埋まり、村は日照りと疫病に苦しむことに。そのため青龍を祀(まつ)る社を造り、泉の地を掘ると温泉が湧出。やがて人々は青龍や温泉のことを忘れてしまい、再び日照りと疫病に襲われた。川棚の三恵寺(さんねじ)の和尚が祈ると薬師如来が現れ、そのお告げで和尚が温泉を再び掘り起こし、人々が温泉を浴びると病気が回復。青龍を、温泉と村の守護神とするようになったという。なお、他に異なる伝承もある。本文※9へ戻る

古地図を片手に、まちを歩こう。

古地図リーフレットを活用し、地元ガイドの説明を聞きながら歩く、人気のガイドウォーク。川棚もコースの一つです。なお、「古地図を片手に、まちを歩こう。」公式サイトの「古地図で巡るコース一覧」で実施日などの詳細を、「古地図で巡るコース(マップ)」で古地図を見ることができます。
◎川棚編のマップで「御国廻御行程記」の川棚温泉部分を見ることができます。
開催期間: 3月まで。なお、川棚編は3月までの第1・3土曜日に開催(1週間前までに川棚温泉観光ボランティアガイドの会事務局(川棚の杜 内)に要予約)

参考文献