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周防鋳銭司跡から出土した「長年大寳」の写真(山口市教育委員会提供)

周防鋳銭司跡から出土した「長年大寳」(山口市教育委員会提供)。字は上から時計回りに長年大寳とある。周囲にバリが残る他、孔(あな)の部分も貫通しておらず、仕上げまで至らなかった鋳損じ銭だと分かる

鋳損じ銭や工房跡の発見!! 見えてきた古代の周防鋳銭司

約半世紀ぶりの発掘調査が行われている国指定史跡「周防鋳銭司(すおうのじゅぜんじ)跡」。鋳損じ銭(いそんじせん)の発見など、新発見が相次いでいます。全国に6カ所しかなかった古代の鋳銭司。何が見えてきたのか、紹介します。
山口市鋳銭司(すぜんじ)地域にある平安時代の遺跡「周防鋳銭司跡」。約半世紀ぶりの発掘調査で発見が相次ぎ、注目を集めています。
鋳銭司とは、奈良時代や平安時代に銭貨(せんか)を鋳造(ちゅうぞう)した役所のこと。全国に6カ所あったと考えられ、そのうちの2カ所が銅の産出が盛んだった山口県(※1)にありました。一つは長門鋳銭司(※2)。もう一つが周防鋳銭司で、記録(※3)によれば長門鋳銭司廃止後の天長2(825)年から11世紀初めごろまで、当時、国内有数の鋳銭司(※4)として、いわゆる皇朝十二銭(※5)のうち8種類を造っていたとされます。
その周防鋳銭司はどこにあったのか。関連の地名が多く残る(※6)鋳銭司や陶(すえ)地域では、といわれてきました。昭和40年代、鋳銭司字大畠で企業の進出を前に発掘調査(※7)を実施。すると幅10メートルを超える流路の跡(溝状遺構)が見つかり、その流路跡などから坩堝(るつぼ)(※8)や鞴羽口(ふいごはぐち)(※9)と共に、嘉祥元(848)年から造られた銅銭「長年大寳(ちょうねんたいほう)」の破片など大量の鋳造関連遺物(※10)が出土しました。その第1次・2次調査の成果に基づき、一帯は国指定史跡に。ただし、発掘調査は史跡指定地のわずかな部分しか行われていなかったため、その後、調査の再開が望まれるようになりました。

ノルマに汗し、時には失敗した職人たち? 事務にいそしむ官人たち

そうした中、史跡内の約半世紀ぶりの発掘調査が平成29(2017)年から山口市と山口大学によって再開されました。その年の調査(第3次)では、史跡内の南東部、昭和40年代の調査で見つかった流路跡の周辺で、大量の鋳造関連遺物を発見。さらにその中からさびついた金属の塊が見つかりました。
X線CT撮影などの結果、それは5枚の長年大寳が付着したものと判明。しかも鋳造時にできるバリ(※11)と呼ばれる余分な部分が付いていたことから、仕上げに至らなかった“鋳損じ銭”だと分かりました。つまりそれは、周防鋳銭司での鋳造を明らかに物語るものだったのです。さらに翌年の第4次調査では、長年大寳よりも古い、承和2(835)年から造られ始めた「承和昌寳(じょうわしょうほう)」の鋳損じ銭2枚が出土。小さな破片ながら、天長2(825)年から周防鋳銭司はあったとされる記録に、また一歩近づく大きな発見でした。
現在、第7次調査を行っており、これまでに史跡内のやはり南東部で炉跡が複数発見されています。その炉跡は大型の溶解炉(※12)1基と、小型の複数の鋳造炉(※13)の2種類。そしてそれらの炉を覆うように東西約6メートル・南北18メートル以上の建物が建つ工房があったことも多くの柱穴の発見から分かってきました。工房内の端に溶解炉が1基。その炉から少し間を空けて鋳造炉が一直線上に4基。そして工房はさらに北に続く大規模なもので、もっと多くの炉があった可能性が現在高まっています。
その工房が位置するのは、昭和40年代に見つかった流路跡のすぐ北西。また、流路跡の東でも、古代における県内最大級の木組の井戸や柱穴(※14)が発見されました。井戸や流路跡などからは、大量の木簡(※15)や、人面が描かれた呪符(じゅふ)(※16)などが出土。帳簿に用いたと考えられる木簡も数多くあり、井戸の周辺では事務作業が行われていた可能性が見えてきました。さらに、その井戸などは周防鋳銭司跡の東限と考えられていた流路跡の東側での発見だったことから、周防鋳銭司跡はさらに東側に広がる可能性まで出てきました。
鋳損じ銭などから、9世紀半ばまでには銭貨造りが始まっていたことが確定した周防鋳銭司跡。記録によれば、年間1,100万枚を目標に造られていたといいます。発掘調査からは、工房でノルマ達成に向けて汗し、時に失敗しながら懸命に働く人々、木簡を手に事務にいそしむ人々の姿が浮かび上がってきます。
北西から見た周防鋳銭司跡の写真(山口市教育委員会提供)
北西から見た周防鋳銭司跡の写真(山口市教育委員会提供)

北西から見た周防鋳銭司跡(山口市教育委員会提供)。上部左端から右斜め下へ続く道が国道2号。街道「山陽道」もほぼ同様に位置し、この辺りは古代、海岸線が迫っていた。“赤い点線”の内側が国指定史跡。その上方、突き出た一帯から流路や大型建物跡などを発掘
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北西から見た周防鋳銭司跡(山口市教育委員会提供)。上部左端から右斜め下へ続く道が国道2号。街道「山陽道」もほぼ同様に位置し、この辺りは古代、海岸線が迫っていた。“赤い点線”の内側が国指定史跡。その上方、突き出た一帯から流路や大型建物跡などを発掘
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第3次・4次調査で見つかった直径8メートルの巨大な廃棄場所の写真(山口市教育委員会提供)
第3次・4次調査で見つかった直径8メートルの巨大な廃棄場所の写真(山口市教育委員会提供)

第3次・4次調査で見つかった直径8メートルの巨大な廃棄場所。5枚の長年大寳(848年-859年)や、坩堝・鞴羽口など、大量の鋳造関連遺物が出土(山口市教育委員会提供)
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第3次・4次調査で見つかった直径8メートルの巨大な廃棄場所。5枚の長年大寳(848年-859年)や、坩堝・鞴羽口など、大量の鋳造関連遺物が出土(山口市教育委員会提供)
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坩堝(左)と鞴羽口(右)の写真(山口市教育委員会提供)
坩堝(左)と鞴羽口(右)の写真(山口市教育委員会提供)

左が坩堝、右が鞴羽口(山口市教育委員会提供)。坩堝は金属を高温で熱するのに用いられる容器で、銅銭の鋳型に注ぐのにも用いた。鞴羽口は炉を高温にするため空気を送り込む装置「ふいご」の送風口
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左が坩堝、右が鞴羽口(山口市教育委員会提供)。坩堝は金属を高温で熱するのに用いられる容器で、銅銭の鋳型に注ぐのにも用いた。鞴羽口は炉を高温にするため空気を送り込む装置「ふいご」の送風口
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第6次調査区全景写真(山口市教育委員会提供)
第6次調査区全景写真(山口市教育委員会提供)

第6次調査区全景写真(山口市教育委員会提供)。赤い点線は大型建物跡を分かりやすくするため加工したもの。クリック後の拡大写真は加工なしの写真で、丸い穴が大型建物の柱穴。建物は東西6メートル・南北18メートル以上の工房と考えられている
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第6次調査区全景写真(山口市教育委員会提供)。赤い点線は大型建物跡を分かりやすくするため加工したもの。クリック後の拡大写真は加工なしの写真で、丸い穴が大型建物の柱穴。建物は東西6メートル・南北18メートル以上の工房と考えられている
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県内最大級の木組井戸の写真(山口市教育委員会提供)
県内最大級の木組井戸の写真(山口市教育委員会提供)

県内最大級の木組井戸(山口市教育委員会提供)。1辺が約1.4メートル。大きさは役所の力を示すもの、大量の水が必要だったことを示すのではと考えられている
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県内最大級の木組井戸(山口市教育委員会提供)。1辺が約1.4メートル。大きさは役所の力を示すもの、大量の水が必要だったことを示すのではと考えられている
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井戸から出土した人面が描かれた呪符の写真(奈良文化財研究所撮影)
井戸から出土した人面が描かれた呪符の写真(奈良文化財研究所撮影)

井戸から出土した人面が描かれた呪符(奈良文化財研究所撮影)。左は赤外線写真。他に桃の種や皿なども出土しており、呪符も含めて、それらは祭祀にかかわる遺物と考えられている
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井戸から出土した人面が描かれた呪符(奈良文化財研究所撮影)。左は赤外線写真。他に桃の種や皿なども出土しており、呪符も含めて、それらは祭祀にかかわる遺物と考えられている
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  1. 県内の有名な銅山として、東大寺大仏の銅にも用いられた現在の美祢市にあった長銅(ながのぼり)銅山など。本文※1へ戻る
  2. 現在の下関市長府にあり、和同開珎(わどうかいちん)を鋳造。本文※2へ戻る
  3. 平安中期の『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)』などによる。本文※3へ戻る
  4. 記録によれば、天慶3(940)年、藤原純友(ふじわら すみとも)の乱で周防鋳銭司は焼失したという。その後、山口市陶地域にある字銭庫(せんこ)・鋳銭坊(いせんぼう)に工房は移転したとされる。本文※4へ戻る
  5. 皇朝十二銭は、708年初鋳の和同開珎から958年初鋳の乾元大寳(けんげんたいほう)までの12種。そのうち周防鋳銭司では818年初鋳の富壽神寳(ふじゅしんぽう)以降の8種を造ったとされているが、出土は承和昌寳と長年大寳のみ。鋳造後に出荷されて残っていない可能性や、鋳損じ銭も基本的には再利用された可能性がある。本文※5へ戻る
  6. 銭庫・鋳銭坊など。本文※6へ戻る
  7. 明治時代に鋳造関連遺物が出土した水田を中心に行われた。本文※7へ戻る
  8. 金属を高温で熱するのに用いられる容器。本文※8へ戻る
  9. 炉を高温にするため空気を送り込む装置「ふいご」の送風口。本文※9へ戻る
  10. 9世紀から10世紀のもの。本文※10へ戻る
  11. 鋳造過程で、製品の正規の形状からはみ出た余分な部分。本文※11へ戻る
  12. 銅などの原料を高温で溶かす炉。本文※12へ戻る
  13. 銅などを鋳型に流し込むため、坩堝に入れて再度溶かす炉。本文※13へ戻る
  14. 建物の柱穴ではないかと考えられている。本文※14へ戻る
  15. 文字を書くため短冊形に削られた木片。官庁間で取り交わす文書や、物品の出納などに伴う記録などに用いられた。本文※15へ戻る
  16. 災厄を防ぐ力があるという札(ふだ)。本文※16へ戻る

鋳銭司郷土館 特別企画展「周防鋳銭司と古代の鋳銭」

周防鋳銭司跡や長門鋳銭所跡など、県内外の遺跡から出土した古代の鋳銭(ちゅうせん)関係資料を展示。周防鋳銭司跡の最新の調査成果について紹介します。また、11月28日(日曜日)・1月8日(土曜日)には鋳銭司郷土館でギャラリートーク、12月19日(日曜日)には山口南総合センターでシンポジウム(11月19日(金曜日)までに往復はがきで山口市文化財保護課へ申し込み。定員あり)が行われます。
開催期間:11月11日(木曜日)から令和4(2022)年1月23日(日曜日)まで

参考文献