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周南市福川「若山城跡」への登山道入り口の写真

国道2号沿いにある周南市福川「若山城跡」への登山道入り口(周南市)。陶の道を発展させる会が設置した看板が城跡へ導いてくれる

本当に逆臣?! 陶晴賢の虚像。そして今

「厳島の戦い」で毛利元就と戦って亡くなった戦国武将・陶晴賢。今年は生誕500年に当たります。
悪役のイメージで長く語られてきた晴賢の実像を探るとともに、近年の顕彰活動を紹介します。
陶晴賢(すえ はるかた)といえば、主君・大内義隆(おおうち よしたか)に背いて自刃に追い込んだ“逆臣(※1)”で、毛利元就(もうり もとなり)(※2)による"義隆の弔い合戦(厳島の戦い)(※3)"で討伐されたのは天罰(※4)…というふうに、悪役のイメージで語られてきました。でも、それは本当の姿なのでしょうか。
陶氏は早くに分かれた大内氏一族。山口を本拠とする西国一の大名・大内氏の下で、周防国(すおうのくに)の守護代(しゅごだい)(※5)を代々務め、やがて大内氏重臣筆頭の地位に。そして16世紀前半、大内義隆を支える陶氏の当主となったのが晴賢でした(当時の名は隆房(たかふさ))。中国地方で勢力を広げつつあった尼子(あまこ)氏(※6)との戦いでは、大内氏方の軍を率い、窮地に陥った毛利元就を救援。元就との関係を深めました。
晴賢の実像が十分に分かる当時の確かな史料はありません。ただし、江戸時代中期の記録(※7)に「夜寝るときは幼い子の足までも大内氏の館の方へ向けさせなかった」などとあります。江戸時代初期の記録(※8)には、尼子氏に大敗した悲惨な撤退の際、「米を兵らに買い与え、わが身は魚の内臓をすすって水を飲み、飢えをしのいだ」という記載。こうした記録からは従来のイメージと異なり、主君を敬い、家臣を思いやる晴賢の姿が見えてきます。
また、歴代当主で最大の栄華を誇った大内義隆へのクーデターは、実は他の大内氏重臣や、毛利元就らも賛同してのことでした(※9)。彼らが新たな主君としたのは、大内氏の血を引く人物(※10)。晴賢が義隆にとって代わろうとしたのではありませんでした。しかし、やがて晴賢は元就から断交され、厳島の戦いへ。晴賢を討伐された逆臣とするイメージは、勝ち残った側から見た後の歴史観によって作られたものといえます。
さらに近年、晴賢は大内氏一族の問田(といだ)氏からの養子だった可能性が高いことが分かりました(※11)。当時は家名の存続を重んじた時代。重臣筆頭の家を継いだ気負いなどが、自分たちが支えてきた主君の家「大内家」の将来への憂いを生み、クーデターへと発展したのかもしれません(※12)

地元でも長く続いた陶氏の虚像。ゆかりの地は今、ふるさとの誇りに

晴賢を悪役とするイメージは、その館や山城(※13)があった周南市でも長く続き、子どもが悪さをすると「陶晴賢のようになるぞ!」といわれていました。昭和43(1968)年、その伝承に疑問を持っていた当時青年団長の中村秀昭(なかむら ひであき)さんは、陶氏の本城「若山城跡(※14)」への新春登山を開催。そのころ城跡は荒れ放題だったといいます。仲間たちと共に山道や本丸跡などの整備を重ね、やがて若山城跡は県指定文化財(史跡)に。中村さんらはその後「七人の侍の会(現 陶の道を発展させる会)」を結成し、歴史を調べて晴賢の従来像が誤りであることに確信を持ち、三武将(晴賢・義隆・元就)のジャンボ紙芝居を創作。NHK大河ドラマの誘致活動を県内外の三武将ゆかりの地に呼び掛けて展開すると、平成9(1997)年には「毛利元就」の放映が実現し、若山城も登場しました。
また、そうした活動とは別に、若山城本丸跡と館跡を結ぶ道を、やぶを切り開くなどして数年がかりで探し当てた方がいました。七人の侍の会は平成8(1996)年からその道を活用した「陶の道ウォーク」を開催(※15)。そのコース「陶の道・若山城登城のみち」は「美しい日本を歩きたくなる道500選」に選ばれ、子どもたちにも親しまれるようになりました。
晴賢生誕500年の今年、陶の道を発展させる会は若山城跡への登山道入り口に、それを祝う大きな看板を、新南陽若山ライオンズクラブは「陶氏と若山城は我らの誇りなり」と記した記したのぼり旗を掲げました(※16)。新南陽商工会議所は若山城跡の御城印(※17)を作り、販売を開始。ふるさとの歴史を見つめ直し、誇りを持って伝えようとする動きが今、広がっています。
若山城跡にある説明板の写真
若山城にある説明板の写真

若山城跡は、本丸を中心に東西に細長い曲輪(くるわ。城郭の中、土や石で囲まれた一区画)が配置された連郭式城郭。敵の侵入を防ぐ空堀(からぼり)・竪堀(たてぼり)・壇床(だんどこ)などの遺構がよく残り、中世後期の山城の典型的特徴を持つ
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若山城跡は、本丸を中心に東西に細長い曲輪(くるわ。城郭の中、土や石で囲まれた一区画)が配置された連郭式城郭。敵の侵入を防ぐ空堀(からぼり)・竪堀(たてぼり)・壇床(だんどこ)などの遺構がよく残り、中世後期の山城の典型的特徴を持つ
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若山城跡の登山道の写真
若山城跡の登山道の写真

若山城跡の登山道には中村さんらの活動により、370本近い桜が植樹されており、「若山城は宝物」と書かれた言葉も掲げられている。また、二の丸跡は駐車場として整備されており、本丸からは瀬戸内海や九州まで望める
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若山城跡の登山道には中村さんらの活動により、370本近い桜が植樹されており、「若山城は宝物」と書かれた言葉も掲げられている。また、二の丸跡は駐車場として整備されており、本丸からは瀬戸内海や九州まで望める
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富岡公園にある「陶氏居館址」の石碑の写真
富岡公園にある「陶氏居館址」の石碑の写真

周南市下上(しもかみ)平城(ひらじょう)にある「陶氏館跡」と考えられている地。富田川右岸の丘陵にあり、現在は富岡公園などがあるところ。南に陶氏の七尾山城跡、北に上野山城跡や別所城跡。また、陶氏の墓所がある建咲院(けんしょういん)や海印寺(かいいんじ)も近い
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周南市下上(しもかみ)平城(ひらじょう)にある「陶氏館跡」と考えられている地。富田川右岸の丘陵にあり、現在は富岡公園などがあるところ。南に陶氏の七尾山城跡、北に上野山城跡や別所城跡。また、陶氏の墓所がある建咲院(けんしょういん)や海印寺(かいいんじ)も近い
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建咲院にある陶興房の墓の写真
建咲院にある陶興房の墓の写真

周南市土井「建咲院」にある陶興房(すえ おきふさ)の墓。建咲院は興房が建立した寺院。興房は大内義興(よしおき)・義隆(よしたか)に仕えた陶氏当主。文武両道に秀でた武将だったという。興房の跡を継いだのが晴賢
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周南市土井「建咲院」にある陶興房(すえ おきふさ)の墓。建咲院は興房が建立した寺院。興房は大内義興(よしおき)・義隆(よしたか)に仕えた陶氏当主。文武両道に秀でた武将だったという。興房の跡を継いだのが晴賢
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龍文寺の写真
龍文寺の写真

周南市長穂にある「龍文寺」。永享元(1429)年、陶盛政(もりまさ)が建立。陶氏一族の菩提寺で、境内に「陶氏墓所」がある。晴賢が厳島の戦いで敗死後、晴賢の子・長房は弘治2 (1556)年、杉氏に攻められて若山城から逃れ、龍文寺で自刃したとされる
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周南市長穂にある「龍文寺」。永享元(1429)年、陶盛政(もりまさ)が建立。陶氏一族の菩提寺で、境内に「陶氏墓所」がある。晴賢が厳島の戦いで敗死後、晴賢の子・長房は弘治2 (1556)年、杉氏に攻められて若山城から逃れ、龍文寺で自刃したとされる
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「若山城跡の御城印」の写真
「若山城跡の御城印」の写真

新南陽商工会議所が発売している「若山城跡の御城印」。陶弘護(すえ ひろもり)は15世紀後半、応仁・文明の乱で大内氏内部が分裂した際、大内政弘(まさひろ)を支えて活躍した陶氏の若き当主。なお、若山城を築城した人物には諸説がある
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新南陽商工会議所が発売している「若山城跡の御城印」。陶弘護(すえ ひろもり)は15世紀後半、応仁・文明の乱で大内氏内部が分裂した際、大内政弘(まさひろ)を支えて活躍した陶氏の若き当主。なお、若山城を築城した人物には諸説がある
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  1. 謀反の心を持った家来。君主に背いた家来。本文※1へ戻る
  2. 安芸国(あきのくに。現在の広島県西部)の一武将から、大内氏の傘下で台頭。厳島の合戦で勝利後、大内義長(よしなが)を自刃に追い込み、やがて中国地方の覇者となった。本文※2へ戻る
  3. おもしろ山口学「大内氏・陶氏VS毛利氏 厳島の戦い 第1回 兵力差の真実と、手紙が残した真実」、「第2回 陶晴賢らの渡海と、渡海に反対した弘中隆兼の最期」参照。本文※3へ戻る
  4. 「天罰」は『吉田物語』にある言葉。同書は元禄年間に萩藩(毛利氏)の家臣が著作した覚書(おぼえがき)で、史実の証拠とするには、やや信頼できない箇所がある。本文※4へ戻る
  5. 守護の職務の代行者。本文※5へ戻る
  6. 出雲国(現在の島根県東部)を本拠とした大名。本文※6へ戻る
  7. 『多々良(たたら)盛衰記』。晴賢について「朝日に向かって礼をする時は、義隆の身上や武運長久、繁栄を祈った」ともある。本文※7へ戻る
  8. 『陰徳記』。筆者は岩国領主・吉川(きっかわ)氏の家老・香川正矩(かがわ まさのり)。岩国領主・吉川氏は、毛利元就の次男・元春(もとはる)の第三子・広家(ひろいえ)を始祖とする。本文※8へ戻る
  9. おもしろ山口学「大内義隆の栄華と悲劇 第2回 重臣らによるクーデターと毛利元就」参照。本文※9へ戻る
  10. 大内義長。豊後国(ぶんごのくに。現在の大分県)を拠点とした大名・大友宗麟(おおとも そうりん)の弟。母は大内義興(よしおき)の娘とされるが、異説もある。本文※10へ戻る
  11. 和田秀作「吉田兼右(よしだ かねみぎ)「防州下向記」に見える大内氏関係記事」による。「防州下向記」は、大内氏と親交があった神道家・兼右の日記。それによれば、晴賢は従来いわれてきた陶興房の実子ではなく、問田隆盛(たかもり)の弟と考えられる。なお、従来、興房の姉の子とする異説、興房を養父とする異説もあった。本文※11へ戻る
  12. 大内義隆は財政難の朝廷を度々支援するなど、朝廷との関係が深く、多くの貴族が義隆を頼って山口へ。貴族らは義隆の政治にも影響を与えたと考えられ、そうしたことが家臣らの不満を高めた一因とも考えられている。本文※12へ戻る
  13. 周南市には陶氏の山城跡として若山城跡のほか、陶氏に関係する山城跡として七尾山城跡・上野山城跡・別所城跡などがある。本文※13へ戻る
  14. 厳島の戦いで晴賢が敗死した翌年の弘治2(1556)年、若山城にいた晴賢の子・長房(ながふさ)は大内氏重臣・杉(すぎ)氏に攻め込まれ、長穂(ながほ)の龍文寺へ落ち延びたが自害したとされる。やがて周防国へ侵攻した元就父子が翌年3月、若山城に着陣。その後、城は破却された。本文※14へ戻る
  15. 現在休止中。本文※15へ戻る
  16. 新南陽若山ライオンズクラブは晴賢生誕500年記念行事として他に「祝 陶晴賢公生誕五百年」と記したのぼり旗を掲げ、河津桜3本も植樹。本文※16へ戻る
  17. 城の名が書かれたものに家紋や花押などを押したもの。登城記念などとして、全国各地の城郭等で近年発売されるようになり、人気が高まっている。県内では、萩城跡御城印(萩市)や串崎城御城印(下関市)、岩国城御城印(岩国市)もある。本文※17へ戻る

参考文献