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「毛利元就自筆書状(三子教訓状)」(部分)(毛利博物館蔵)の写真

「毛利元就自筆書状(三子教訓状)」(部分)(毛利博物館蔵)。弘治3(1557)年11月25日付。毛利隆元・吉川元春・小早川隆景宛て。国の重要文化財

中国地方の覇者 毛利元就。あの“三本の矢”の真実とは?!

毛利元就といえば“三本の矢”。でも、それは本当の話なのでしょうか? 毛利博物館「毛利元就没後450年記念 毛利元就と戦国の動乱」展で展示中の「三子教訓状」を通して紹介します。
安芸国(あきのくに)(※1)の一武将から中国地方の覇者となった毛利元就(もうり もとなり)。今年は没後450年に当たります。元就といえば、有名なのが“三本の矢”の話。それは一般的に次のような内容で知られます。元亀2(1571)年、元就は死を前に、子らを呼び、子らの数ほど矢を取って「一本ずつ折ればたやすく折れるが、一つに束ねれば折れがたい」「兄弟で助け合うことが大事だ」と戒めた…。明治時代の修身(※2)の教科書(※3)などに掲載されてきた話です。
でも、この話は事実ではありません。話の元になったのは「三子教訓状」と呼ばれる、元就が三人の息子に宛てた手紙と考えられており、三本の矢の話と異なる点が実は幾つもあります。例えば、手紙には三本の矢が全く登場しないこと。そのとき元就と共にいたのは長男の隆元(たかもと)(※4)のみで、次男で吉川(きっかわ)家の養子となった元春(もとはる)や、三男で小早川(こばやかわ)家の養子となった隆景(たかかげ)はいなかったこと。そしてその手紙は、元就が亡くなる元亀2(1571)年ではなく、弘治3(1557)年11月、長男の隆元と共に、周防国の富田(とんだ。現在の周南市)にいたときに書かれたとされていることです(※5)
元就は筆まめで、長い手紙を書くことでも知られ、とりわけその手紙は全長約3メートルと長く、次のようなことが書かれています。「幾度も申しますが、毛利の名字が末代までもすたれないように、心がけ、気遣いが最も肝心です」「元春・隆景は、他名の家を相続しましたが、これは当座のことであって、毛利の二字を、ないがしろにし、忘却するのは、全くいけないことです」「三人の仲が、少しであっても懸子(かけご)(※6)で隔てられたように疎遠になったならば、ただもう三人は滅亡すると考えておきなさい。(中略)元就の子孫は、格別に諸人から憎まれていますから、後先の差はあったとしても、一人として討ちもらされることはないでしょう」(※7)…。内容的には三本の矢をほうふつとさせるものですが、元就はなぜこのとき、長々と手紙を書かなければならなかったのでしょうか。

「三子教訓状」から見えてくるものは、本当に教訓?!

元就はこれより10年前の天文16(1547)年頃、長男の隆元に家督を譲っていました。毛利氏はもともと、安芸国吉田荘(よしだのしょう)(現在の広島県安芸高田市)を本拠とする一領主。山口を本拠とする西国一の大名・大内(おおうち)氏の傘下で、元就は近隣の領主らを味方に付けて台頭。家督を譲った後も政務や軍事などに関与し、また、隆元を支えるため、家臣らの体制づくりや、三人の息子らと頻繁に手紙を交わして意思疎通を図りました。
やがて元就・隆元父子らは厳島の戦い(※8)を経て、弘治3(1557)年4月、大内氏を滅亡させます(※9)。それによって領地は急拡大。一方で、当主の権力強化を目指したい元就と有力家臣らの意見との相違、息子たち同士の意識のずれ、北部九州や出雲の有力大名との敵対化など、内外に多くの問題を抱えるようになります。
そうした中で大内氏滅亡から半年後の11月、元就らに緊張が走ります。大内氏旧臣や反毛利の領民らが蜂起し、山口をはじめ富田・富海・右田・長府・赤間関など防長両国の各地で毛利軍への一揆が起きたのです(※10)。大内氏を滅亡させ、安芸国に戻っていた元就・隆元父子は18日には急遽、軍を率いて再び周防国へ。そのとき本陣を置いた地が富田とされ、そこで元就は25日、三子教訓状をしたためたのでした。
他家を相続させた二人の息子にまで「毛利こそが大事」と繰り返し説いた元就。長々とした三子教訓状からは、家の行く末を心配する強い危機感とともに、兄弟の結束によって家臣らを圧倒して毛利家を強化し、一族間の内紛も防ぎ、そして反対勢力に勝ち抜いていこうとする元就の政治戦略が見えてきます。
「毛利元就像」(部分)(毛利博物館蔵)の写真
「毛利元就像」(毛利博物館蔵)の写真

「毛利元就像」(毛利博物館蔵)。国の重要文化財。元就の死後約20年を経て描かれたもの。画像の上部にある賛文の内容から、元就の孫(隆元の長男)輝元(てるもと)によって元就の菩提寺・洞春寺(とうしゅんじ)に収められたものと考えられている
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「毛利元就像」(部分)(毛利博物館蔵)。国の重要文化財。元就の死後約20年を経て描かれたもの。画像の上部にある賛文の内容から、元就の孫(隆元の長男)輝元(てるもと)によって元就の菩提寺・洞春寺(とうしゅんじ)に収められたものと考えられている
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「毛利隆元自画像」(部分)(毛利博物館蔵)の写真
「毛利隆元自画像」(毛利博物館蔵)の写真

「毛利隆元自画像」(毛利博物館蔵)。山口県指定文化財。元就の長男・隆元の自画像とされる肖像画。隆元は15歳からの数年間、大内氏の山口で人質として過ごした。全盛期の大内文化に浸っていたため、吉田荘に帰った隆元は、元就から学芸よりも戦略・調略を学ぶよう諭された
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「毛利隆元自画像」(部分)(毛利博物館蔵)。山口県指定文化財。元就の長男・隆元の自画像とされる肖像画。隆元は15歳からの数年間、大内氏の山口で人質として過ごした。全盛期の大内文化に浸っていたため、吉田荘に帰った隆元は、元就から学芸よりも戦略・調略を学ぶよう諭された
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「軍幟」(毛利博物館蔵)の写真
「軍幟」(毛利博物館蔵)の写真

「軍幟」(毛利博物館蔵)。山口県指定文化財。元就と戦場を共にした軍旗。厳島神社の神衣の上に、墨書で毛利家の家紋と軍神の名が記されている。三子教訓状の中で、元就は厳島神社への信仰を大切にすること、元就の偉業も厳島の神がもたらしたものと主張し、三子の慢心をいさめている
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「軍幟」(毛利博物館蔵)。山口県指定文化財。元就と戦場を共にした軍旗。厳島神社の神衣の上に、墨書で毛利家の家紋と軍神の名が記されている。三子教訓状の中で、元就は厳島神社への信仰を大切にすること、元就の偉業も厳島の神がもたらしたものと主張し、三子の慢心をいさめている
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「毛利元就座備図」(部分)(毛利博物館蔵)の写真
「毛利元就座備図」(毛利博物館蔵)の写真

「毛利元就座備図(もうりもとなりざそなえず)」(毛利博物館蔵)。元就以下の当主一族と家臣団を、序列などを勘案して江戸時代に描かれたもの。最上段に元就。その両脇に隆元、隆元の長男・輝元。次の段には吉川元春・小早川隆景と彼らの義兄弟・宍戸隆家(ししど たかいえ)。元就が宗家を支えようとした体制が、絵に現れている
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「毛利元就座備図(もうりもとなりざそなえず)」(部分)(毛利博物館蔵)。元就以下の当主一族と家臣団を、序列などを勘案して江戸時代に描かれたもの。最上段に元就。その両脇に隆元、隆元の長男・輝元。次の段には吉川元春・小早川隆景と彼らの義兄弟・宍戸隆家(ししど たかいえ)。元就が宗家を支えようとした体制が、絵に現れている
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勝栄寺の写真
勝栄寺の写真

周南市富田にある「勝栄寺」。大内氏重臣だった陶弘政が南北朝時代に開いたと伝わる寺院で、戦国時代の弘治3(1557)年11月、元就がここで三子教訓状を書いたとされる。また、後には豊臣秀吉が宿泊したと伝わる
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周南市富田にある「勝栄寺」。大内氏重臣だった陶弘政(すえ ひろまさ)が南北朝時代に開いたと伝わる寺院で、戦国時代の弘治3(1557)年11月、元就がここで三子教訓状を書いたとされる。また、後には豊臣秀吉が宿泊したと伝わる
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「勝栄寺土塁及び旧境内」説明板の写真
「勝栄寺土塁及び旧境内」説明板の写真

勝栄寺山門にある「勝栄寺土塁及び旧境内」説明板。勝栄寺の旧境内は、寺院でありながら同時に土塁と環濠(かんごう)をめぐらせた城館的な施設だったと考えられており、現在も土塁の一部が残存し、山口県指定文化財(史跡)となっている
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勝栄寺山門にある「勝栄寺土塁及び旧境内」説明板。勝栄寺の旧境内は、寺院でありながら同時に土塁と環濠(かんごう)をめぐらせた城館的な施設だったと考えられており、現在も土塁の一部が残存し、山口県指定文化財(史跡)となっている
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  1. 現在の広島県西部。本文※1へ戻る
  2. 旧学制下で、道徳教育を行った教科。本文※2へ戻る
  3. 宮内省『幼学綱要』明治14(1881)年、末松謙澄『小学修身訓』明治25(1892)年など。なお、前者では、元就と話した息子として名が記されているのは、三男の小早川隆景のみ。本文※3へ戻る
  4. 元就より早く、永禄6(1563)年に41歳で急死した。本文※4へ戻る
  5. 富田では、勝栄寺が本陣となった地として伝わる。江戸時代の記録『防長寺社由来』には、元就が九州へ進発(進軍)したころ、その行き帰りの際に勝栄寺に宿泊したとある。本文※5へ戻る
  6. 箱などの内側に棚を設けてはめこむ内側を懸子という。三重・四重の懸子もある。本文※6へ戻る
  7. 毛利博物館『毛利元就』・『毛利元就没後450年記念 毛利元就の手紙』より転載。本文※7へ戻る
  8. 大内氏重臣・陶晴賢(すえ はるかた)との戦い。おもしろ山口学「大内氏・陶氏VS毛利氏 厳島の戦い 第1回 兵力差の真実と、手紙が残した真実」、「第2回 陶晴賢らの渡海と、渡海に反対した弘中隆兼の最期」参照。本文※8へ戻る
  9. 毛利軍は防長両国へ侵攻。山口から長府へ逃れた大内義長(よしなが)を自害に追い込んだ。本文※9へ戻る
  10. 山口では障子岳城の戦いや妙見崎山の戦いが起き、11月11日、その一揆勢を大内氏旧臣で毛利氏家臣となった内藤隆春(ないとう たかはる)や杉(すぎ)氏らが討ち取った。本文※10へ戻る

毛利博物館 毛利元就没後450年記念「毛利元就と戦国の動乱」

没後450年を記念し、国の重要文化財「三子教訓状」をはじめ、息子たちや家臣らと交わした手紙、刀・甲冑など、毛利家歴代が大事にしてきた元就の遺品を通して、元就の生涯を紹介しています。
開催期間:9月5日(日曜日)まで

参考文献