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野田神社拝殿(手前)と幣殿および回廊(後ろ)、豊栄神社(右)の写真

「俵山村清図」(部分)(山口県文書館蔵)。江戸時代中期の絵図で、俵山温泉が描かれている。御札場は高札場のこと。赤い太い線は赤間関街道(北道筋)で、現在も俵山温泉の湯町を通る道

絵図と記録で旅する、お殿さまの湯治場 俵山温泉

俵山温泉は長門市の中山間地域にある、湯治場の趣を残す小さな温泉郷です。
お殿さまも度々訪れた江戸時代の俵山温泉について、絵図(古地図)などを通して紹介します。
江戸時代、萩藩では数多くの絵図を作製しました。その中には1700年代、防長両国(現在の山口県)の村ごとに作られた「地下上申(じげじょうしん)絵図(※1)があります。地下上申絵図は各村から提出された地下図と、それをもとに萩藩絵図方(えずかた)が清書した清図(せいず)から成り、合わせて1,300点以上。その一つ「俵山村清図」からは、今も湯治場の趣を色濃く残す山あいの湯のまち・俵山のかつての様子が浮かび上がってきます。
俵山村清図に描かれた萩方面からの赤間関街道(※2)が、川のそばに家々が立ち並ぶ一帯(湯町)に差し掛かると、左手に「湯」と記された建物が見えます。それが湯屋(温泉施設)で、そこには三つの湯壺がありました。湯屋のそばの高台の上には薬師堂(※3)、街道沿いには高札場(こうさつば)。高札場とは、幕府や藩の御触書(おふれがき)を掲げる場所で、人通りの多い所に設けられるもの。当時のにぎわいが浮かんできます。
高札場を過ぎると左手に高台への坂道があり、坂の途中の門をくぐって右へ行けば正福寺(※4)。左へ行けば数棟から成る建物があり、「御茶屋」と記されています。御茶屋とは、お殿さまなどが休息・宿泊した萩藩の公館。俵山温泉はお殿さまが御茶屋を設けるほど評判の地だったことが分かります。

お殿さまの湯治場は俵山から湯本へ。そして幕末の大火からの復興

元禄元(1688)年には、萩藩3代藩主・毛利吉就(もうり よしなり)が俵山を訪れています。それは萩城を発って帰城するまで19日間に及んだ長湯治の旅でした。『防長風土注進案』によれば、そのとき正福寺を御茶屋と定め、正福寺の僧侶を別の所(御茶屋のそば)へ移らせています(※5)。その代わり、寺には迷惑料として普段は湯治客を泊め、その宿賃を寺の収入とすることを許可。寺にとってはありがたい話だったでしょう。
宝永7(1710)年には、萩藩5代藩主・毛利吉元(よしもと)が湯治に訪れています。一行は総勢299人という大所帯。14日間の湯治で、吉元は温泉を楽しむだけでなく、鷹狩りへ二度出かけ、三ノ瀬(そうのせ)の焼物(※6)を取り寄せて眺め、俵山村の能満寺の宝物(ほうもつ)を持参させて観賞し、6人の神主から入湯の無事を祈祷してもらい…と多忙な日々を過ごしています。その上、ある日は、御茶屋の脇、正福寺前の空き地に舞台などを作らせ、遠く離れた瀬戸崎(現在の長門市仙崎)祇園社(※7)の踊り手たちを呼び寄せて、朝から晩まで踊りを見物。別の日にも、近くに来ていた宮市(現在の防府市宮市)の一座を前述の舞台で上演させています。吉元は俵山の湯が気に入ったようで、享保11(1726)年にも訪れていて、そのときの目的は痔の療養でした。
俵山温泉は古くから優れた効能(※8)で知られ、他国(防長以外)から訪れる人も多い湯の町でした。ところが延享4(1747)年以降、お殿さまの湯治は湯本温泉に変わります。明和5(1768)年には、湯本温泉に御茶屋が設置され、俵山の御茶屋は解除されます。お殿さまの湯治場が湯本に変わった理由は不明ですが、俵山温泉への一般の湯治客があまりに増えたため、とも考えられています(※9)
その後、幕末の嘉永4(1851)年、俵山温泉は大火に襲われ、湯屋も、28軒あった宿屋も、正福寺も、薬師堂も焼失します。それでも村の人々は湯町を復興させ、薬師堂も再建(現在は薬師寺)。大火の翌年には、萩藩13代藩主・毛利敬親(たかちか)の側室が湯治にやってきています。
お殿さまをはじめ、多くの人々に愛されてきた俵山温泉。病からの回復を願ってやってくる人々を、街道沿いの高台にある薬師寺(※10)が今も見守り続けています。
「俵山村清図」(部分)(山口県文書館蔵)の写真
「俵山村清図」(部分)(山口県文書館蔵)の写真

「俵山村清図」(部分)(山口県文書館蔵)。右上の三つ辻を、この画像で右上へ進むと長門市湯本や萩市。左へ進むと俵山の湯町(左下)。下へ進むと下関市豊田町西市へ至る。なお、最初の画像とは向きが異なる
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「俵山村清図」(部分)(山口県文書館蔵)。右上の三つ辻を、この画像で右上へ進むと長門市湯本や萩市。左へ進むと俵山の湯町(左下)。下へ進むと下関市豊田町西市へ至る。なお、最初の画像とは向きが異なる
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「右 湯町 くるそん道」「左 西市 下の関道」「弘化二年」と書かれた道標の写真
「右 湯町 くるそん道」「左 西市 下の関道」「弘化二年」と書かれた道標の写真

先の画像の三つ辻のところにある道標。道標には「右 湯町 くるそん道」「左 西市 下の関道」「弘化二年」とある
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先の画像の三つ辻のところにある道標。道標には「右 湯町 くるそん道」「左 西市 下の関道」「弘化二年」とある
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薬師寺への石段そばにある「涼風亭記」の碑の写真
薬師寺への石段そばにある「涼風亭記」の碑の写真

薬師寺への石段そばにある「涼風亭記」の碑。すぐ近くに共同温泉「町の湯」があり、その辺りが江戸時代の湯屋の場所。町の湯の敷地内に源泉がある。他に共同温泉として「白猿の湯」があり、露天風呂やペット湯も備える
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薬師寺への石段そばにある「涼風亭記」の碑。すぐ近くに共同温泉「町の湯」があり、その辺りが江戸時代の湯屋の場所。町の湯の敷地内に源泉がある。他に共同温泉として「白猿の湯」があり、露天風呂やペット湯も備える
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「御茶屋坂」の写真
「御茶屋坂」の写真

(左)通称「御茶屋坂」。町の湯の西側にある。涼風亭記によれば、御茶屋は湯屋まで長い廊下でつながっていた。現在の町の湯の裏と温泉閣との間の辺りに、御茶屋はあったと考えられている。(右)「俵山村清図」(御茶屋前の坂道周辺部分)(山口県文書館蔵)
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(左)通称「御茶屋坂」。町の湯の西側にある。涼風亭記によれば、御茶屋は湯屋まで長い廊下でつながっていた。現在の町の湯の裏と温泉閣との間の辺りに、御茶屋はあったと考えられている。(右)「俵山村清図」(御茶屋前の坂道周辺部分)(山口県文書館蔵)
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幕末の大火の後、薬師堂の地に再建された薬師寺の写真
幕末の大火の後、薬師堂の地に再建された薬師寺の写真

幕末の大火の後、薬師堂の地に再建された薬師寺。本尊の薬師如来は、仙崎の極楽寺から譲り受けた金剛薬師如来立像。薬師如来は病苦などから救ってくれる仏とされ、湯治に来る人々に厚く信仰されてきた
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幕末の大火の後、薬師堂の地に再建された薬師寺。本尊の薬師如来は、仙崎の極楽寺から譲り受けた金剛薬師如来立像。薬師如来は病苦などから救ってくれる仏とされ、湯治に来る人々に厚く信仰されてきた
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俵山温泉の夕景の写真
俵山温泉の夕景の写真

俵山温泉の夕景。両脇に古くからの湯宿が並ぶ。この道がかつての赤間関街道(北道筋)。現在もほとんどの旅館に内湯はなく、浴衣姿で共同温泉に通う湯治客の姿を見ることができる
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俵山温泉の夕景。両脇に古くからの湯宿が並ぶ。この道がかつての赤間関街道(北道筋)。現在もほとんどの旅館に内湯はなく、浴衣姿で共同温泉に通う湯治客の姿を見ることができる
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  1. 一村ごとに村境で切り抜かれた形をしており、ジグソーパズルのように隣村の絵図とつなぐことができる。おもしろ山口学「絵図を作った男たち-萩藩絵図方の挑戦-江戸時代の巨大ジグソーパズル」(2009年5月22日)参照。本文※1へ戻る
  2. 赤間関街道は、萩と赤間関(下関市)を結んだ街道。ルートは中道筋(なかみちすじ)・北道筋(きたみちすじ)・北浦道筋(きらうらみちすじ)の三つがあり、俵山を通るのは北道筋。本文※2へ戻る
  3. 薬師如来を祀(まつ)るお堂。俵山温泉の守護仏。かつて正福寺の管理下にあった。本文※3へ戻る
  4. 室町時代の応永年間の創建と伝わり、湯本の名刹・大寧寺(たいねいじ)との関係が深く、正福寺の住職が温泉を所轄したという。なお、俵山温泉発見の伝説には諸説がある。一つは延喜16(916)年、能満寺近くの猟師が、矢傷を負った白猿が流れに身を浸しているのを見つけ、温泉を知ったという伝説。他に大寧寺が関係する伝説がある。 本文※4へ戻る
  5. 吉就に仕えた学者・山田原欽(やまだ げんきん)が、吉就に同行して俵山を訪れ、そのとき「涼風亭記」を著している。涼風亭は御茶屋の中に新築された御座間(ござのま)の名。本文※5へ戻る
  6. 萩焼。萩焼は李勺光(り しゃっこう)・李敬(けい)兄弟によって始まったとされる。萩の松本村で始まり、後に勺光の一族が深川村(ふかわむら。現在の長門市湯本の三ノ瀬へ。松本村の松本焼・松本萩に対し、深川焼・深川萩ともいう。おもしろ山口学「新発見の書状が裏付ける「異国仁」の焼物師と萩焼」(2014年4月11日)参照。本文※6へ戻る
  7. 八坂神社。本文※7へ戻る
  8. 山田原欽の「涼風亭記」には、俵山温泉の効能が記されている。なお、泉質はアルカリ性単純温泉。効能は神経痛・筋肉痛・関節痛・リウマチ・痔疾など。本文※8へ戻る
  9. 『長門市史 歴史編』による。また、同書ではもう一つの理由として、そのころ湯本温泉がある深川村に勘場(役所)が置かれ、同村が大津郡(現在の長門市)の行政の中心地となったことと関係があるとしている。本文※9へ戻る
  10. かつて松葉づえをついて来た人が、回復したことに感謝し、床下に松葉づえを奉納する習わしがあった。本文※10へ戻る

古地図を片手に、まちを歩こう。

古地図リーフレットを活用し、ボランティアガイドの説明を聞きながら歩く、人気のガイドウオーク。俵山もそのコースの一つです。なお、「古地図を片手に、まちを歩こう。」公式サイトの各コースの紹介欄の「ガイドウオーク情報を見る」をクリックすると実施日などの詳細を、「古地図を見る」をクリックするとそのコースで用いる古地図を見ることができます。
◎俵山の紹介欄からは「俵山村清図」を見ることができます。
開催期間:8月6日(金曜日)から2022年3月31日(木曜日)まで
場所:長門市俵山をはじめ県内各地

山口県立山口博物館 特別展「江戸時代の旅と街道」

萩藩11代藩主の娘・嘉姫の「嘉姫様俵山御湯治一件」など、お殿さまたちの湯治旅行に関する史料や、さまざまな絵図、江戸時代の旅にまつわる資料などを展示します。
開催期間:8月6日(金曜日)から9月23日(木曜日)まで

参考文献