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野田神社拝殿(手前)と幣殿および回廊(後ろ)、豊栄神社(右)の写真

手前が野田神社拝殿。その後ろが幣殿および回廊で、外からはうかがえないが、最奥に本殿がある。拝殿の右手、何もない空間の向こうに見えるのが豊栄神社

神となった幕末の萩藩主・毛利敬親公

亡くなって今年で150年になる幕末の萩藩主・毛利敬親公。元藩士らの熱い思いによって、神として祀られた野田神社について紹介します。
山口県庁からほど近い七尾山(ななおやま)の麓に「豊栄(とよさか)神社」と隣り合い、深い緑に包まれ、神秘的な気配に満ちた「野田神社」があります。幕末の萩藩主・毛利敬親(もうり たかちか)を祭神とする神社です。激動の時代にさまざまな改革を行い、有能な人材を育み、日本を明治維新へ導いた敬親。明治維新後は天皇から上京して補佐してほしいと求められますが、体調が優れず、明治4(1871)年3月山口で亡くなりました(※1)。以後、敬親を敬愛する人々によってさまざまな顕彰活動(※2)が進められ、その一つが野田神社の創建でした。
折しもそのころ、萩城内にあった毛利元就(もとなり)(※3)を祀(まつ)る神社が山口へ移され、明治4(1871)年12月、豊栄神社となります。そここそ、後に野田神社も創建される地。早すぎた死により入居がかなわなかった敬親の隠居所「野田御殿(※4)」の隣接地でもありました。
2年後、防長の人々が「敬親卿の神霊を豊栄神社の別殿に安置を」と嘆願し、明治政府に聞き入れられます。別殿に祀られた敬親の霊社は当初「忠正(ちゅうせい)神社(※5)」と名付けられ、明治9(1876)年、地名を冠した野田神社に改められます。
人々はやがて豊栄神社からの野田神社独立を望むようになります。そして豊栄神社の西隣に、野田神社の社殿が新たに造営され、明治19(1886)年4月、完成した本殿へ神霊を遷座する式典などが華々しく挙行されました。その4年前には豊栄神社が別格官幣社(国家の忠臣を祭神とする神社)に昇格しており、元家臣らは「野田神社も別格官幣社に」と政府へ働き掛けます。当初は見送られますが、大正4(1915)年10月、念願かなって野田神社も別格官幣社に(※6)。そのとき宮司を務めていたのが幕末「禁門の変(※7)」の責めを負って自刃した三家老の一人、国司親相(くにし ちかすけ)の孫・直行(なおゆき)。禁門の変によって朝敵(朝廷の敵)とされた藩主が、時を経て国家の忠臣として認められたことに、感慨もひとしおだったことでしょう。

山縣有朋ら幕末維新期の名士らの名が刻まれた石造物に守られた境内

神社創建のころから大正時代にかけて防長ゆかりの人々から献納されたものは、現在も境内の随所で出合えます。例えば「吉敷郡南部十七ヶ村」「佐波郡有志」と刻まれた灯籠。高杉晋作(たかすぎ しんさく)らを支援したことで知られる小郡の大庄屋・林勇蔵(はやし ゆうぞう)が献納した灯籠もあります。
大正5(1916)年建立の二ノ鳥居(※8)には、松下村塾出身で内閣総理大臣を2度務めた山縣有朋(やまがた ありとも)や、明治天皇に信任された杉孫七郎(すぎ まごしちろう)(※9)、寺内正毅(てらうち まさたけ)(※10)ら、そうそうたる人物の名が刻まれています。そのそばには、迫力ある見事な萩型狛犬(※11)があり、それは萩の石工・山中武資(やまなか たけすけ)によるもの。武資は山口県初の石造洋風隧道(ずいどう)「鹿背(かせ)隧道(※12)」工事を石工棟梁として指揮した人物としても知られます。
拝殿や本殿がある地への石段を上り、門をくぐった内側には、幕末、岩倉具視(いわくら ともみ)を警衛した剣豪で、初代山口県知事を務めた原保太郎(はら やすたろう)(※13)の名が刻まれた灯籠(※14)。本殿を守るように位置する回廊の前には、毛利一族からの灯籠(※15)。そして境内を包み込む深い緑は、旧岩国藩主・吉川(きっかわ)家ゆかりの「義済堂(ぎせいどう)(※16)」をはじめ、防長の人々から献納されたヒノキやモミノキなどが今や老樹となったものです。
ここかしこにある石造物などに導かれて境内を歩めば、激動の幕末維新期を生き抜いた人々の、亡き藩主への敬愛の念が伝わってきます。
「野田神社境内図(官国弊社)」(部分)(山口県文書館蔵)の写真
「野田神社境内図(官国弊社)」(部分)(山口県文書館蔵)の写真

「野田神社境内図(官国弊社)」(部分)(山口県文書館蔵)。別格官幣社への昇格申請時に添えられた絵図面の副本。金箔(きんぱく)が散りばめられ、細やかに描かれ、色彩も美しい。豊栄神社は描かれておらず、雲に覆われている。大正4(1915)年の作
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「野田神社境内図(官国弊社)」(部分)(山口県文書館蔵)。別格官幣社への昇格申請時に添えられた絵図面の副本。金箔(きんぱく)が散りばめられ、細やかに描かれ、色彩も美しい。豊栄神社は描かれておらず、雲に覆われている。大正4(1915)年の作
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野田神社二ノ鳥居そばにある萩型狛犬の写真
野田神社二ノ鳥居そばにある萩型狛犬の写真

野田神社二ノ鳥居そばにある萩型狛犬。明治24(1891)年献納。山口県初の石造洋風隧道工事で石工棟梁を務めた山中武資の作
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野田神社二ノ鳥居そばにある萩型狛犬。明治24(1891)年献納。山口県初の石造洋風隧道工事で石工棟梁を務めた山中武資の作
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野田神社二ノ鳥居から神門への参道の写真
野田神社二ノ鳥居から神門への参道の写真

野田神社二ノ鳥居から神門への参道。石段を上って神門をくぐると、拝殿や本殿のある境内に至る
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野田神社二ノ鳥居から神門への参道。石段を上って神門をくぐると、拝殿や本殿のある境内に至る
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参道と絵馬堂の間にある、花の形を思わせる大型の手水鉢の写真
参道と絵馬堂の間にある、花の形を思わせる大型の手水鉢の写真

参道と絵馬堂の間にある、花の形を思わせる大型の手水鉢。毛利家墓所がある香山公園(山口市)にある「毛利敬親勅撰銅碑」そばの手水鉢と同じもの
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参道と絵馬堂の間にある、花の形を思わせる大型の手水鉢。毛利家墓所がある香山公園(山口市)にある「毛利敬親勅撰銅碑」そばの手水鉢と同じもの
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野田神社の拝殿などを右手から撮影した写真
野田神社の拝殿などを右手から撮影した写真

野田神社の拝殿などを右手から撮影した写真。拝殿前のコンクリート製の用水溜は明治19(1886)年寄進。当時の小野田セメントの製品として貴重。なお、昭和17(1942)年に修理
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野田神社の拝殿などを右手から撮影した写真。拝殿前のコンクリート製の用水溜は明治19(1886)年寄進。当時の小野田セメントの製品として貴重。なお、昭和17(1942)年に修理
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野田神社の右手にある、毛利元就を祭神とする豊栄神社の写真
野田神社の右手にある、毛利元就を祭神とする豊栄神社の写真

野田神社の右手にある、毛利元就を祭神とする豊栄神社。豊栄の神号は明治2(1869)年、明治天皇から賜ったもの
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野田神社の右手にある、毛利元就を祭神とする豊栄神社。豊栄の神号は明治2(1869)年、明治天皇から賜ったもの
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毛利博物館 企画展「毛利敬親没後150年記念 幕末の萩藩主毛利敬親」

萩藩主として、いかに藩政を担い、幕末の動乱を切り抜けたか、毛利家に残されたゆかりの遺品などから紹介しています。
期間:7月11日(日曜日)まで

十朋亭維新館 企画展「山口に生き続ける殿様 敬親公」

「敬親公」のそばで御小姓や番長などとして長く仕え、後に上宇野令(かみうのれい)村(現在の山口市)の村長となった河北一(かわきた はじめ)が、野田神社造営の監督に任じられた辞令など、敬親公を敬愛した人々のさまざまな史料を展示中です。
期間:8月30日(月曜日)まで

  1. 死去の翌月、朝廷から位階「従一位(じゅいちい)」を、後に最高位の「正一位(しょういちい)」を追贈された。本文※1へ戻る
  2. 明治天皇の勅命により作成された碑文を刻み、明治31(1898)年に山口の香山公園に建設された毛利敬親勅撰銅碑。山口の亀山公園山頂広場に明治33(1900)年に完成した毛利家銅像など。おもしろ山口学「幻となった6基の『毛利家銅像』秘話-山口市亀山公園-」参照。本文※2へ戻る
  3. 戦国時代の中国地方の覇者。毛利家中興の祖。本文※3へ戻る
  4. 現在の「山口市菜香亭」の地。本文※4へ戻る
  5. 「忠正」は敬親の諱(いみな)。諱は死去後の称号。本文※5へ戻る
  6. 第二次大戦後、社格は廃止。本文※6へ戻る
  7. 元治元(1864)年7月、萩藩が名誉回復を嘆願するため御所へ向かい、薩摩藩などと戦って敗退した事件。おもしろ山口学「『禁門の変』の責任を負った三家老の一人、益田親施」参照。本文※7へ戻る
  8. 大正5(1916)年5月、敬親の養嗣子・毛利元徳(もとのり)を祀る「芳宜園(はぎぞの)神社」が野田神社摂社として創立された際のもの(現在は野田神社に配祀)。摂社は、本社に付属し、その祭神とゆかりの深い神を祀った神社。本文※8へ戻る
  9. 幕末、萩藩士として初めて西欧へ渡り、明治維新後は主に宮中関係の役職を務めた。おもしろ山口学「杉孫七郎-長州ファイブより先に世界を見た男」参照。本文※9へ戻る
  10. 元萩藩士。大正5(1816)年、内閣総理大臣となった。本文※10へ戻る
  11. 萩型狛犬の特徴は、阿形の獅子の口の中に玉があり、吽形の狛犬は右前足で玉を踏んでいるものが多いこと。台座に見事な浮彫があることも多いのも特徴。おもしろ山口学「幕末、京都の北野天満宮にも寄進された萩型狛犬」参照。本文※11へ戻る
  12. 萩と瀬戸内海を結ぶ陸路の利便性を高めるため、明治17(1884)年に開通したトンネル。開通年は当時の防長新聞による。国の登録有形文化財。「道の駅 萩往還」近くにある。本文※12へ戻る
  13. 丹波国の園部藩(現在の京都府南丹市園部町)の元藩士。本文※13へ戻る
  14. 野田神社創建時に献納されたもの。本文※14へ戻る
  15. 芳宜園神社創設の際、献納されたもの。本文※15へ戻る
  16. 旧岩国藩士族を救済するため吉川家が設立した機関。本文※16へ戻る

参考文献