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(左)柑きつ振興センターで接木から3年目に実ったクネンボの実と(右)萩市椿東にある「松下村塾」の写真

(左)柑きつ振興センターで接木(つぎき)から3年目に実ったクネンボの実。(右)萩市椿東にある「松下村塾」。石碑の後方に植栽されたクネンボがある

吉田松陰も青木周蔵も愛した“幻の果実”クネンボ

江戸時代には人々に親しまれながら、いつしか姿を消してしまった果実、クネンボ。さまざまな人々の思いがつながり、その苗木が今春、松下村塾のそばに植栽されました。植栽までの物語を紹介します。
吉田松陰(よしだ しょういん)が幕末、萩の実家の隣に塾生たちと共に建てた「松下村塾」。そのすぐそばに今年3月、クネンボの小さな苗木が植栽されました。それは松陰神社にとって待望のこと。それほど待ち望まれたクネンボとは、どんなものなのでしょう。
クネンボは江戸時代などの史料に「九年母」「九ねぶ」など(※1)として出てくる、かつてはよく知られた柑(かん)きつ類。しかし今では見られなくなった、いわば幻の果実です。
松陰との関係では、松陰が萩の野山獄に投じられていたときの手紙にしばしば登場します(※2)。実家にクネンボの木があったのか、兄や妹から度々獄中に差し入れられ、あるとき、松陰は妹への手紙にこう書いています。「お手紙、九ねぶ・みかん・かつおぶしとともに昨晩届きました。(中略)あなたの心中を察して涙が止まらず、布団をかぶって寝ました。それでも耐えきれず、起きて、手紙を繰り返し見て、ますます涙にむせび…」(※3)。松陰と家族の愛情が伝わってくる、切ない手紙です。
このクネンボ、実はおもしろ山口学に何度か登場しています。慶応2(1866)年、萩藩主が英国海軍キング提督を三田尻(みたじり。現在の防府市)で饗応したことを紹介した回(※4)では、献立に登場。続いて明治時代、ドイツ通の外交官として活躍した青木周蔵(あおき しゅうぞう)を紹介した回 (※5)では、周蔵が萩の親族に送った手紙に登場。ドイツ人と結婚した愛娘が久しぶりに帰国するのを前に、周蔵が「萩の名物・ク子ブ(クネブ)を食べさせてやりたいので五六十個送ってほしい」、さらに「西洋にない品なので娘へ与えたく」と重ねて催促したエピソードです。

夏ミカンや温州ミカンが広まっていった陰で、姿を消したクネンボ

クネンボはインドシナ原産とされ、温州(うんしゅう)ミカンの花粉親(かふんおや)(※6)となった柑きつです(※7)。温州ミカンと比べて一回り大きく、種子も多く、酸味が強く、味は濃厚。厚い果皮に独特の臭いがかすかにあるのが特徴です。
萩藩が天保12(1841)年以降、各村にさまざまな情報を提出させたものからなる地誌『防長風土注進案』によれば、クネンボは特に三田尻宰判(現在の防府市一帯)で盛んに栽培されていました(※8)。「明治七年府県物産表」によれば、クネンボは当時、国内全体の柑きつ類の生産額の中で3番目に位置しています。しかもクネンボの生産額は、なんと山口県がトップ。全国の生産額の半分近くを占めたほどでした(※9)。しかし明治11(1878)年ごろから萩地域では夏ミカン(※10)、明治中頃からは大島地域など県内各地でクネンボより甘い温州ミカンの栽培が広まり(※11)、次第に姿を消していくことになりました。
そうした中、平成29(2017)年、当時山口大学の五島淑子(ごとう よしこ)教授がキング提督への饗応料理の再現に関わったのを機にクネンボを探し始めました。山口県の柑きつ振興センター(※12)に相談したところ、県内では1980年代以降確認されていないこと、国の研究機関(農研機構)で品種として保存されていることが判明。さらに福岡県の宗像(むなかた)大社では祭祀(さいし)用に栽培され続けていることも分かりました。
そのことは松陰神社宝物殿至誠館の樋口尚樹(ひぐち なおき)館長や、植栽を長年願っていた松陰神社の上田俊成(うえだ とししげ)名誉宮司に伝わり、昨春、宗像大社から穂木(※13)を分けていただけることになりました。その穂木を松陰神社では樹木医の草野隆司(くさの たかし)さんに接木(つぎき)して育ててもらい、今年3月、松下村塾のそばへ待望の植栽となったのでした(※14)
山口県を代表するほど親しまれながら、忘れられ、そしてよみがえったクネンボ。5月ごろには白い花を咲かせ、無事に育てばやがて冬には実を結びます。これからも末永く、山口県の地で愛され続けますように(※15)
「英国人三田尻渡来一件」(山口県文書館蔵 毛利家文庫)の写真
「英国人三田尻渡来一件」(山口県文書館蔵 毛利家文庫)の写真

「英国人三田尻渡来一件」(山口県文書館蔵 毛利家文庫)。三田尻で萩藩主・毛利敬親(もうり たかちか)が英国海軍キング提督らを饗応したときの萩藩の記録。写真は、長州側の料理の献立。「みかん 九年母」とある
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「英国人三田尻渡来一件」(山口県文書館蔵 毛利家文庫)。三田尻で萩藩主・毛利敬親(もうり たかちか)が英国海軍キング提督らを饗応したときの萩藩の記録。写真は、長州側の料理の献立。「みかん 九年母」とある
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料亭「桑華苑」による「日英饗応料理の再現」の再現料理の写真
料亭「桑華苑」による「日英饗応料理の再現」の再現料理の写真

平成30(2018)年、防府市明治維新150年推進協議会の事業として、萩藩主がキング提督をもてなした「日英饗応料理の再現」が行われた。左端の皿にあるのがクネンボ。料亭「桑華苑」による再現料理を撮影した写真
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平成30(2018)年、防府市明治維新150年推進協議会の事業として、萩藩主がキング提督をもてなした「日英饗応料理の再現」が行われた。左端の皿にあるのがクネンボ。料亭「桑華苑」による再現料理を撮影した写真
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クネンボ植栽式の様子の写真
クネンボ植栽式の様子の写真

今年3月、松下村塾のすぐそばにクネンボが植栽された。左がクネンボの植栽を長年願っていた上田俊成名誉宮司
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今年3月、松下村塾のすぐそばにクネンボが植栽された。左がクネンボの植栽を長年願っていた上田俊成名誉宮司
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松下村塾のすぐそばに植栽されたクネンボの苗木の写真
松下村塾のすぐそばに植栽されたクネンボの苗木の写真

松下村塾のすぐそばに植栽されたクネンボの苗木。なお、近年、温州ミカンの全ゲノムが初めて解読され、「温州ミカンの片親であるクネンボはキシュウミカンの子であること」が確認された
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松下村塾のすぐそばに植栽されたクネンボの苗木。なお、近年、温州ミカンの全ゲノムが初めて解読され、「温州ミカンの片親であるクネンボはキシュウミカンの子であること」が確認された
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周防大島町にある柑きつ振興センターにあるクネンボの樹の写真
周防大島町にある柑きつ振興センターにあるクネンボの樹の写真

周防大島町にある柑きつ振興センターにあるクネンボの樹。2018年に農研機構のクネンボを温州ミカンに接木し、育てられているもの
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周防大島町にある柑きつ振興センターにあるクネンボの樹。2018年に農研機構のクネンボを温州ミカンに接木し、育てられているもの
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(左)萩市江戸屋横町にある「青木周弼・研蔵・周蔵旧宅」と(右)その庭にあるかんきつ類の古木の写真
(左)萩市江戸屋横町にある「青木周弼・研蔵・周蔵旧宅」と(右)その庭にあるかんきつ類の古木の写真

(左)萩市江戸屋横町にある「青木周弼・研蔵・周蔵旧宅」。(右)その庭にかんきつ類の古木があり、クネンボでは?と期待されたが、山口大学の柴田勝准教授によるDNA多型解析の結果、クネンボではないことが分かった
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(左)萩市江戸屋横町にある「青木周弼・研蔵・周蔵旧宅」。(右)その庭にかんきつ類の古木があり、クネンボでは?と期待されたが、山口大学の柴田勝准教授によるDNA多型解析の結果、クネンボではないことが分かった
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  1. 他に「乳柑」「乳柑子」など。本文※1へ戻る
  2. 安政元(1854)年11月14日・27日付、安政2(1855)年11月6日付の手紙。本文※2へ戻る
  3. おもしろ山口学「吉田松陰と松陰を支えた家族たち 第3回 久坂玄瑞と妹・文の結婚」(2015年1月23日)参照。本文※3へ戻る
  4. おもしろ山口学「幕末の長州のお殿様と英国海軍キング提督の饗応」(2017年12月22日)本文※4へ戻る
  5. おもしろ山口学「不平等条約の改正に力を尽くした“独逸翁”青木周蔵」(2020年3月27日)本文※5へ戻る
  6. 新品種を育成する際に、花粉を採取する父親樹のこと。父親樹の花粉親と、母親樹の種子親品種を交配して新品種は育成される。本文※6へ戻る
  7. 国立研究開発法人 農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)と情報・システム研究機構国立遺伝学研究所により、2018年、温州ミカンの全ゲノム(すべてのDNA塩基配列)が初めて解読され、「温州ミカンの片親であるクネンボはキシュウミカンの子であること」「温州ミカンはキシュウミカンの子にさらにキシュウミカンが交配されて生まれたこと」が確認された。本文※7へ戻る
  8. 山口大学「『風土注進案』産物・産業記載データベース」によると、ミカンについては当時、油宇村(現在の周防大島町)が最も多い。本文※8へ戻る
  9. 「幕末における日英饗応料理からみる食文化の変遷」による。本文※9へ戻る
  10. おもしろ山口学「やまぐちナツミカン物語」(2007年12月28日など)参照本文※10へ戻る
  11. 周防大島のミカン栽培は日前(ひくま)村(現在の周防大島町橘地域)の藤井彦右衛門(ふじい ひこえもん)が嘉永元(1848)年、泉南(現在の大阪府南西部)から数百本の苗木を買って帰ったのが始まりとされている。栽培は明治時代に広まった。本文※11へ戻る
  12. 山口県農林総合技術センター農業技術部柑きつ振興センター。 本文※12へ戻る
  13. 芽や枝を切り取って他の株の茎につなぐ接木のとき、つぐ方の芽や枝を穂木といい、つがれる方の根のある株を台木という。本文※13へ戻る
  14. 山口大学や柑きつ振興センターでも穂木を接木して育てられている。本文※14へ戻る
  15. 現在も山口大学地域未来創生センターの五島淑子特命教授や松陰神社が連携し、山口大学の柴田勝(しばた まさる)准教授による、DNA多型解析(塩基配列の違いを検出する方法)も用いながら県内のクネンボ探索が行われている。本文※13へ戻る

参考文献